深い深い闇の中、青年は眠っている。
ここにあるのは静寂だけ、そう、静寂だけ。
『目覚めよ』
体をゆさぶる様な声が響く。
『目覚めよ、運命の子よ』
「僕を起こそうとするのは誰?」
青年は目を開けずに尋ねた。
しかし、声は答えようとはせず、ただ目覚めよと繰り返すだけだ。
「ここは心地良いんだ・・・・起きたくない」
『目覚めよ』
「嫌だ・・嫌だ・・・・・」
『目覚めよ、世界を癒す者よ!!!!』
その瞬間、世界は光に包まれた。
エヴァンゲリオン戦記
Chapter 17: 覚醒
まだ幼い少年が、剣を振り回している。
上段の構えから振り下ろし、今度は体を反転させて突きを放つ。
彼の額には汗が光り、額に髪がへばりついている。
それを近くで眺めている女性。
彼女は整った顔立ちをしており、美女と言ってもさしつかえない容姿をしている。
だが、厳しい目で少年を見つめる彼女は、ある特殊な雰囲気を醸し出しており、近寄り難い印象を見る者に与えるであろう。
「腕が下がって来てるわよ!!これくらいで疲れていてどうするのっ!!」
女性の放った声に、少年は必死になって問題点を直そうとするが、いかんせん長時間剣を振り続けていた為に、彼の筋肉は頭の命令を聞き入れてはくれない。
「せいっ!やぁっ!!」
気合いでカバーしようとするが、彼の腕は先ほどより下がって来ている。
「ふぅ・・・・・・」
女性はため息をつくと、自分も腰にさしていた剣を抜き放った。
白刃が太陽の光りを反射し、チカチカと光る。
「そこまでよ。さあ、今度は私にかかってきなさい」
女性が言うと、剣を振っていた手を止めた少年が、少しためらう素振りを見せる。
「真剣でなんて・・・危ないよ・・・・・」
「うぬぼれないで。十二歳の子供に傷を負わせられるほど、私の腕は落ちてないわ」
「母さんの事じゃ無いよ。僕が危ないって言ったんだ・・・・・」
「どうして?」
「だって母さん、熱くなると、手加減無しで来るじゃないかっ!!」
以前にとんでも無い経験でもしたのか、少年は必死の表情で訴えかける。
「あら、大丈夫よ。だって、あの時も死んだりしなかったでしょ?」
ニコリと笑って見せた母に、少年はうなだれ、やがて言っても無駄だと思い直して剣を構えた。とりあえず、彼は生き残る事に集中しなければならない。
「さあ、行くわよ!」
正眼に構えた女性は、いきなり容赦無しの剣撃を少年へ放つ。
女性の物とは思えないスピードて空気を切り裂いたそれは、少年の首を切断する数センチ前で、彼の剣によって止められた。
「わ、わ、あわわ・・・・殺す気っっ!?止められなかったら、死んでたよっ!!」
少年が抗議するが、女性はお構い無しに、今度は剣を受け止めた事でガラ空となってしまった少年の脇腹へと蹴りを放った。
カモシカの様にスラリとした脚が少年の脇腹へと吸い込まれる前に、少年は体を前進させ、蹴りの威力を軽減する。しかし、まだ体重の軽い彼の体は、いくら衝撃を軽減したと言っても大人の蹴りには耐えられず、横へ飛ばされてしまった。
剣を逆手に持ち直した女性が、倒れた少年へと駆け寄る。もちろん、助け起こす為では無い。
「くっ!」
少年が横に転ると、今まで彼の頭があった場所に女性の剣が突き立った。
なんとか起き上がると、反撃だと言わんばかりに少年は女性の脚をなぎはらう様にして剣を振った。しかし、剣が女性の脚へと届こうとした時、女性は軽くジャンプしてそれをかわし、また隙が出来た少年の頭上へと剣を振り下ろす。
それを紙一重でかわした少年は、間合いを取る為にバックステップで女性との距離を取った。
何度も母とは手合わせしてきた少年であったが、今使っているのが木刀では無く真剣であると言う事が彼を緊張させ、いつもの軽快さを殺してしまっている。
それに加え、母は本気になった時にだけ見せる、戦士の目をしていた。
いつもの穏和な母とはまったく違い、なおかつ身を突き刺す様な殺気を放つ彼女を前にして、少年の背に冷や汗が浮き上がる。
ひょっとすると、本当に殺されるのでは無いかとも思えて来た。
しかし、それとは裏腹に、強敵を前にワクワクしている自分が居るのも事実であった。
今は亡き父も騎士であったと母から聞かされているので、もしや血がそうさせるのかと少年は思い、わずかに口を歪めて苦笑した。
その後、少年は攻勢に出て、何度と無く鋭い剣撃を母親へと叩き込んだが、全て防がれてしまい、結局最後は剣の平たい部分で首筋を打たれ、気絶してしまった。
ひんやりとした感触を額に感じ、少年が目を開けると、そこには芝生の上で横になっている自分を心配そうに覗き込む母の顔が見えた。
上半身を起こすと、額にかけてあった濡れたハンカチがポトリと落ちる。
「大丈夫?」
「まあね。で、どれくらい僕は寝てたの?」
「五、六分ぐらいよ。ちょっときつく打ちすぎたわ」
「う〜ん、悲しむべきかな?それとも、これぐらいで済んだって喜んだ方が良いのかな?」
「男の子が細かい事を気にしてちゃ駄目よ」
「またそうやって誤魔化す・・・」
ジト目で少年が女性を見上げるが、女性はただニコニコと微笑んでいるだけだ。
「まあまあシンちゃん。怒らない怒らない。後でシンちゃんの好きなオリーブパンを焼いて上げるから」
「ちぇっ、いつも食べ物で釣ってさ・・・・・」
まだグチグチと言うが、やはり好物には勝てないのか、少年は渋々立ち上がった。
オリーブオイルを塗って焼く母のパンは、とにかく絶品なのである。スネてチャンスを逃す訳には行かない。
ふと何かを思い出した少年は、前を歩く母の背に、前々から抱いていた疑問を投げかけて見た。
「ねえ母さん。なんで、僕は剣術を習わなくちゃ駄目なの?」
少年に背を向けていた女性の顔から、笑みが消える。しかし少年からは女性の顔は見えないので、彼女が悲しげで、そして申し訳なさそうな顔をしているのには気付かなかった。
「シンちゃんは、剣術は嫌い?」
「う〜ん、嫌いじゃ無い・・・・と思う。ううん、むしろ好きだと思うよ。けど、なんでずっと練習してるのかな〜って思ったんだ」
少年は騎士になりたい訳では無い。辺境にあるこの村で、母と二人でゆっくりと暮らせればいいなと思っている。
「・・・・・・・・・・」
母が歩を止めたので、少年も止まった。
「母さん・・・・・?」
何か気に触る事でも言ってしまったのかと少年が心配していると、女性はゆっくりと振り返り、真剣な顔で少年の肩に手を置いた。
「これは貴方の為よ。将来、もし危険が迫った時、自分の身を自分で守る為に必要なの」
「危険?」
「そう・・・・・・。たとえば・・・・・たとえば女の子に襲われそうになった時とかね?プッ、ププッ!!」
自分で言った事に受けたのか、女性は突然ふきだすと、大笑いを始めた。
「???????」
まだ幼い少年は、母が何故笑っているのかが理解出来ず、呆然としている。
少年は線が細く、美少年と言うよりは美少女に見えるので、年頃になれば女の子達がほうってはおかないであろう。ふと女の子に襲われている所を想像してしまい、女性は笑いが止まらなくなってしまったのだ。
「何なんだよ、一体・・・・・・・」
笑い続ける母にあきれた少年は、自分の質問した事など忘れて家の中へと入って行った。
暗転・・・・・・・・
「ミャ〜ン」
なにやら可愛らしい鳴き声に上を見上げてみると、木の枝に子猫が乗っていた。
どうやら登ったは良いが、降りられなくなった様で、不安気なまなざしをこちらへと向けて来る。
枝はかなり高い位置にあり、手を伸ばしても届きそうにないので、上等な服を着た少年は少しためらった後、ゆっくりと木によじ登り始めた。
慎重に枝に手をかけ、木の幹にある出っ張りや窪みに足を引っかけて、上へ上へと登って行く。
この中庭は彼のお気に入りの場所で、何度も訪れた事があるとは言え、木に登ってみるのは始めてである。かなりの高さの為、下を見た少年は喉をゴクリと鳴らした。
時間はかかったが、なんとか子猫の乗っている枝まで近づいた彼は、そっと手を伸ばして子猫を呼んでみる。しかし、高さに怯えてしまっている子猫は、その場にじっと座っているだけで、動こうとはしない。
手と猫との間にはそんなに距離がある訳では無く、少年は体を乗り出して猫を掴えることにした。
右手で太めの枝を掴んだ少年は、左手を子猫へと伸ばす。
「あ、あと少し・・・・・・・よし!」
少年の指が子猫の柔らかな毛に触れ、首を掴むのに成功した瞬間、右手で掴んでいた枝がギシギシと嫌な音を立て始めた。
「う、うわっ!」
慌てて他の枝を掴もうとした少年だったが、あいにく左手には子猫がいるので、その手を使う事が出来ない。
この危機的状況を脱する為に彼の脳は打開策を模索しはじめるが、右手で掴んだ枝はその為の時間を与えてはくれなかった。
バキリと言う音を立てて、見事に折れてしまったのだ。
体が宙に浮く感じがした瞬間、少年は子猫を庇うようにして胸に抱きしめる。
その数瞬後、強い衝撃を背中に感じた彼の意識は、プツリと跡絶えてしまった。
後頭部に心地よい柔らかさを感じ、目を開けた少年が始めに見た物は、ルビーの様に紅い目と、キラキラと陽の光を浮けて輝く蒼銀の髪だった。
「気がついた・・・?」
「う、うん」
「大事な体だから・・・・・・気をつけなければ駄目」
「ご、ごめん」
ひどく心配そうな目を向ける少女に、少年は申し訳なさそうに答えた。
ふと少年は自分が膝枕をされている事に気付き、頬を赤く染める。
されている方もそうであるが、している方も恥ずかしそうにしているので、端から見ていると実に微笑ましい。
本来なら高貴な二人に対して失礼に当たるであろうが、彼等を見ていた侍女たちは、口元を緩めてしまうのを止められなかった。
「あ、そうだ、猫は?」
「ニャ〜ン」
少年の質問に答えたのは少女では無く、彼によって命を救われた小さな命であった。
少女の横にちょこんと座っていた子猫は、少年の側までやって来ると、少年の頭に体をこすりつける。どうやら精一杯の感謝を表わしているようだ。
「助かったんだ・・・・・よかった」
手を伸ばして子猫の顎を撫でてやる。
ゴロゴロと喉を鳴らし始めた子猫に気を良くして、少年はしばらくその行為を続けていたが、不意にその手が陶器の様に白く、美しい手に包まれた。
指を指を絡ませ合い、ときおり少年の存在を確かめるようにして少女は手に力を入れる。
「もう・・・・一人は嫌・・・・・気をつけて・・・・」
「うん・・・・・ごめんよ」
少年は少女の言わんとすることを理解し、自分も少女の手を握り返す。
そう、二人で歩んで行くと誓ったのだから。
少女はもう片方の手で少年の髪を撫で、彼のサラサラの髪に指をからませた。
そして少し上気した顔を、ゆっくりと少年へと近づけて行く。それに合わせて、少年も彼女の膝から頭を持ち上げ、片方の腕を彼女の首へと回して彼女を引き寄せる。
お互いの吐息が感じられる程近寄った時、少女はゆっくりと目を閉じた。
始めてのキスは甘く、そしてどこか切ない味がした。
暗転・・・・・・・・
絶叫が響き、血飛沫が舞う。
どうやらここは、戦場のようだ。
形勢は味方が圧倒的に有利。青年の仕掛けた罠にはまり、敵軍はすでに戦意を喪失している。どちらにしても、敵将があの暗愚なる王なのだから、負ける事など天地が逆さになってもありえない事だが。
青年はまた逃げ惑う敵の背中に剣を突き入れた。断末魔の叫びを上げ、敵が崩れ落ちる。
彼の隣では、彼の親友であり、主でもある蒼銀の髪を持つ青年が、追撃せよとの命令を味方に出している所であった。
この戦で、国王軍はその主力部隊を失った。もう組織的な軍事行動は出来ないであろうし、出来たとしても指の先で弾き飛ばせるぐらいの規模であろう。
ふとこれまでの戦いを振り返り、青年は確かな達成感をかみしめた。
しかし・・・・・、本当にこれで良かったのだろうか?
収穫を前に踏み荒された田畑、家を焼かれた人々、親を亡くして泣き叫ぶ子供たち、子を亡くした親・・・・。
自分たちが内戦を起こさなければ、彼等の涙を見なかったはず。
自分は、未来の為と言う大義名分を掲げた大量殺人者なのでは?
ふと視線を下ろすと、そこには血でそまった手があった。
暗転・・・・・・・・
朝の光の中、美しい女性が青年の腕の中でまどろんでいる。
幸せそうな顔で眠る彼女の顔に、青年は指を這わせ、顔にかかった癖のある髪をのけてやった。
少しくすぐったそうに体を動かした女性の目が、ゆっくりと開けられる。
「おはよう」
恥ずかしげに微笑んだ女性に、青年も微笑み返す。
「うん、おはよう」
「なんだか・・・・恥ずかしいね」
女性は青年の胸板に頬をぴったりと付け、彼の心臓の音にうっとりと聞き入る。
「朝ご飯はどうする?」
「今はいいわ。もう少しだけ、こうさせていて」
「うん・・・・」
腕の中の女性が愛しく思えた青年は、彼女を抱き寄せて額に口づけした。
「愛してる」
「うん、私も愛してるわ」
そのまま二人はまた夢の世界へと旅立っていった。
暗転・・・・・・・・
ふと気が付くと、青年は幌馬車の中に座っていた。
車輪が回るのに合わせて、コトコトと音を立てながら馬車は揺れている。
どうやら夕方なのか、落日の光りに染まった景色に目を向けた青年は、目の前に一人の男の子が座っているのに気付いた。
歳は五、六歳だろうか?ドングリの様に大きな目をした、可愛らしい男の子である。
ただ、男の子の顔には表情が無く、どこか人形の様な印象を受ける。
「こわいの?」
男の子が青年を見上げる。
「何が?」
質問の意味が分からなかった青年が聞き返す。
「じぶんをみつけるのが」
「自分を見つける?」
「そう・・・・・・。にげているんでしょ?」
「言っている事が、良く分からないんだけど・・・・」
困惑した表情で青年が言うと、今度は真横から女性の声が聞こえて来た。
「わかっているくせに」
驚いた青年が隣を向いてみると、そこには蒼銀の髪を持った若い女性が座っていた。
彼女は前を向いたまま、青年とは視線を合わせないで言葉を続ける。
「卑怯者ね・・・・・・・・・・」
「卑怯者?僕が???」
「そう・・・・・・・卑怯者よ」
「君が言ってる事が分からないよ」
すると今度はその反対側から声がした。
「罪悪感と、受け入れてもらえないかもしれないと言う不安で自分を縛り付け、真実に目を向けようとはしない。だからよ」
すこし癖のある茶髪を持つ若い女性が、蒼銀の髪を持つ女性同様、彼の方を見ないで言った。
「真実?」
「そう、しんじつさ」
前の男の子が答える。
「キミがボクであり、ボクがキミであると言う真実・・・・」
「「そして、私達があなたを愛し、これからも愛し続けると言う真実・・」」
二人の女性が言った。
青年はうつむき、肩を震わせ始める。
「僕は・・・・・・僕であって良いの?」
「キミは、キミであって良いのさ」
「「貴方は、貴方であって良いのよ」」
男の子が立ち上がると、青年の前に立って、手を差し出した。
「さあ、ボクを受け入れてよ。シンジはネオで、ネオはシンジなんだから」
「でも・・・・でも僕は許してもらえるんだろうか?」
男の子に手を伸ばしかけた青年だったが、途中で動きが止まってしまう。
躊躇する彼の手に、彼の両側から伸ばされた手が添えられた。
『彼女たちを信じてあげて・・・・・。必ず、貴方を受け入れてくれるはずよ』
何処からか聞こえて来た声に、青年はハッとして顔を上げた。
「母さん?」
知らない声のはずなのに、青年はその声の主を『知って』いた。
『さあ、手を取りなさい。そして、幸せになりなさい』
「うん、分かったよ。もう迷わない」
青年は二人の女性の手が添えられている手で、男の子の手を握った。その瞬間、男の子は凄い勢いで成長し始め、その姿を青年と同じ物に変えた。
「やっと僕を受け入れてくれたんだね、ネオ」
「ごめん、シンジ。やっぱり僕は怖かったのかもしれない。リリスで出会った人達との絆が壊れてしまうのが・・・。心地よさを壊したく無かっただけなんだ・・・・。最低だね、僕は」
「言っただろう、僕は君で君は僕だって。僕も、レイに合わせる顔が無いと悩んでいた。つまり、これは君だけが逃げた訳じゃ無く、お互いに思い出すのを戸惑っていた結果なんだよ。さあ、さっさと目を覚まして、レイとマナに会いに行こう」
「そうだね」
いつしか辺りは暗くなっており、その暗黒の空間にネオとシンジだけが存在した。
互いに握られた手が溶け合い始め、二人の体が重なって行く。
数瞬の後、その場にたたずんでいるのは一人の青年だけだった。
「僕は・・・・・・シンジだ」
暗転・・・・・・・・・
ひどい頭痛がする。
目を開けたシンジは、自分がベッドの上で横になっている事に気付いた。
「生きてる・・・・・」
手当がされている様だが、体を起こそうとすると腹部に激痛が走った。
起き上がるのを諦めた彼は、あらためて部屋を見回してみた。
部屋にはベッドと小さなテーブル、そして粗末な椅子だけしかなく、唯一の窓には鉄格子がはめ込まれている。
ドアも分厚い木に鉄を張り付けた丈夫な物で、とてもぶち破れそうには見えない。
「捕虜・・・・・か」
窓の外の灰色の空を、シンジはどこか呆然とした感じで見上げた。
「ふ、ふふふ・・・せっかく思い出せたのに・・・・」
すこし自嘲気味に笑って見たが、傷が痛んで長くは続けられない。
その時、部屋のドアが開いて、一人の女性が入って来た。
「あら、気がついたのね」
「・・・・・・・」
シンジが沈黙でそれに答えると、女性は肩をすくめて見せ、手に持っていた皿をテーブルの上に置いた。
「食事よ。食べて出来るだけ早く体力を回復させた方が良いわ。でないと、これから始まる拷問に耐えられないわよ」
シンジはこれを予想していたので、ことさら驚いたりする事は無かった。
敵がわざわざ自分を手当したのは、彼を助ける為では無く、彼から情報を引き出す為なのだ。リリスの重鎮であった事がばれてしまった以上、こうなるのは分かっていた。
「さて、包帯を取り替えるわよ」
女性はシンジに掛けてあったシーツを剥ぎ取ると、腹と肩に巻いてある包帯を取り替え始めた。かなり手慣れた手つきで包帯を解き始めた彼女が、不意に小声で喋り出す。
「ここは監視されています。私の言う事は聞こえないふりをしてください。貴方は多分、引き出せるだけの情報を引き出した後、処刑されるでしょう。ですから、私がここから逃亡するのを手伝って上げます」
シンジの眉がピクリと動いたが、彼女の言う通り、聞こえていない振りをした。
「それと交換条件に、私の主を救い出して欲しいのです。主は今、国王に拘束されて拷問を受けております。どうか、力を貸して下さい」
新しい包帯を巻き始めた彼女は、小さな短剣と紙切れを懐から取り出し、シンジの腹に置いて、その上から重ねて包帯を巻いて行く。
「内部の地図と武器です。地図には現在位置と主の拘束されている部屋、そして脱出経路が書き込んであります。武器はわが家の家宝です。小さな名も無いエヴァンゲリオンですが、ここのドアを破るくらいの力はあります。どうか、どうか我が主を助けてやって下さい」
包帯を取り替え終わると、女性は立ち上がって部屋から出て行こうとした。
「ちょっと待ってくれ」
「何?質問には答えられないわよ」
「ここは何処なんだ?」
「・・・・ゼーレの首都、コキュートスよ」
少しためらった後、女性は答えた。これぐらいなら、監視の人間が聞いていても問題は無かろう。
「・・・・・そうか」
シンジがまた窓の外を眺め出したので、女性は部屋から静かに出て行った。
ゼーレの首都とは、随分と遠くまでつれてこられた物だ。今頃、連合軍とゼーレ軍の戦いはどうなっているであろうか?
そしてレイは・・・・・・。
翼があれば、今すぐにでも飛んで帰りたい。帰って、彼女を抱きしめてあげたい。
しかし翼なきシンジには、包帯で巻きつけてある短剣を使って帰るしかなさそうである。
先ほどまで絶望に近い感情で曇っていた心が、希望と言う風を受けて晴れて行く。
空腹を覚えた彼は、テーブルに手を伸ばし、まるでブタの餌の様に見える食べ物を、胃に詰め込み始めた。脱出する為には、何とか体力を回復させねばならないのだ。
リリス首都、メルクリウス
夏に雪が降ると言う異常気象にみまわれたリリスでは、出兵を取り止めた方が良いのでは無いかと言う声が上がっていた。
雪がつもって行軍が難行しそうだからと言うのでは無い。雪はたった一度降っただけで、気温も次の日には通常に戻った為、奇麗に溶けて消えていたのだから。
だが、人間と言うのは迷信や縁起をたいへん気にしてしまう生き物である。
それは数々の雄将や知将がそろっているリリス軍部も例外では無く、『雪が降るとは、災いの前兆であるに違いない』と考える人間は多かった。
そう言った人々が出兵に反対しだしたのである。
「雪は凶兆では無く、吉兆である。神々が我らの正義を認め、祝福したもうておられるのだ。神々の祝福を受けた我らに、もはや恐るる物無し!」
玉座に腰を下ろしたカヲルが宣言すると、彼の言葉は全てを焼き尽くす烈火のように人々の不安を溶かし、なおかつ全軍の士気を上げてしまった。
シンジが人に安らぎを与え、『この人を支えてあげたい』と思わせる才能を持っていたとすれば、カヲルのそれは人を魅了し、『この人の為に死にたい』と思わせる才能であったと、後にケンスケ・アイダは語っている。
この時も、カヲルの覇気は迷信めいた妄想を打ち壊し、それに変わってある種の興奮感を軍人たちに与えたのであった。
かくして、彼等リリス軍は予定通りゼーレを目指して北上しており、すでにゼーレとの国境は目の前まで迫っていた。
敵に接近をさとられにくい新月の夜に攻撃を開始する予定なので、彼等はそれに合わせて首都メルクリウスを出発したのだ。
新月の夜は今夜。つまり、リリスとゼーレの開戦が今夜だと言う事だ。
本来、戦争を開始する前には相手国に使者を送り、こちらの要求とその正当性をのべ、開戦の日時をあらかじめ相手に伝えておくのが古代からの習わしであり、これを行わない国は大陸諸国からの批判を浴びる事となるのだが、今回はそれは行われていない。
ゼーレがネルフへ侵攻した時でもそうであったが、ゼーレは開戦時にこれを行った事は今までに一度も無い。これは、ゼーレに面と向かって批判を浴びせられる様な力を持った国が皆無であるからに他ならず、今までゼーレに奇襲された国は、泣き寝入りするしか無かったのだ。
リリスが宣戦布告の使者を送ると言う事は、彼等にとって何の利益にもならない。
諸国も、決して彼等に批判を浴びせたりする事は無いであろう。
「よっぱらいに理屈を言っても仕方がないさ」
流星王は苦笑して言ったものだ。
もっとも、すでにティフリス大陸はネルフとリリス、そしてはるか北方の数国を除いて、全てゼーレに征服され尽くしているのだから、彼等は誰の目も気にする事など無いと言う考え方もあるのだが・・・・。
カヲルが集めたリリスの兵力は十万。これだけでは、最強の軍事国家たるゼーレには到底かなわない。
しかし、これだけのまとまった兵が動けば、必ずゼーレの中の不穏分子たちが反乱を起こすはずだ。
カヲルは開戦に先駆けて、ゼーレに吸収されてしまった国家のレジスタンスや、ゼーレ国内の反国王派に、秘密裏に武器や活動資金などを援助して来た。今回の戦いでは、この布石が生きて来るであろう。
「ふっ、僕もまだまだ未熟だね」
『であろう』で行動するのは、指導者としては失格である。リリスの若き国王は、馬上で自分の未熟さを笑って見せた。
「何が?」
隣で馬を進めていたムサシが、大きな欠伸をした後、王族への礼儀など忘れさってしまったのかの様な口調で尋ねた。
もちろん、周りに誰も居ないのを確認してだが。
「自分の腑甲斐なさを呪っていたのさ」
「あん?いまごろ気付いたのか?」
身も蓋も無い。
「ちょっと今のは傷ついたよ、ムサシ君」
顔に縦線を入れながらいつもの笑顔を浮かべているカヲルを見て、ムサシは豪快に笑って見せた。
「微笑みながら落ち込むのは止めてくれ。腹が痛い。ガハハハハ」
「リリス軍に品位と言う物は無いのだろうか?」
大口を開けて笑うムサシに、カヲルはため息をついた。
ふと前方に目を向けてみると、ケイタがこちらに向かってくるのが目に入る。
移動するリリス軍の前方で、ケイタは弓戦兵を指揮していたので、後方にいたカヲルの場所まで馬を走らせて来たのだ。
「陛下、もうそろそろ目的地へ到着します」
いくら周りに人が居なくとも、ムサシほどに大胆になれないケイタは、どうしても丁寧語を使ってしまう。
「そうか。じゃあ到着次第、野営の準備を始めてくれ」
「はっ」
これからリリス軍は、国境近くの平地で休息を取り、夜が更けてから国境を越える事になっている。ケイタは前方の軍に目的地で行軍を止める様に命令しなければならない。
「ちょっと待ってくれないかい、ケイタ君」
カヲルが、きびすを返して戻ろうとするケイタを呼び止めた。
「なんですか?」
「今度の戦いはマナちゃんが参戦出来ないから、傭兵部隊はケイタ君の指揮下に入れる事にするよ。今回はその兵を使って、敵陣の左から攻撃を加えてもらいたんだ」
「分かりました。全力をつくします」
「頼んだよ」
ケイタが居なくなると、真顔になったムサシがカヲルに話しかけた。
「左か・・・・・・。傭兵部隊は捨て駒だな」
「ムサシ君は気付たみたいだねぇ」
「まあな。敵の陣地の左側と言えば、一番攻めるのが困難な場所だ。出来るだけ正規軍の損害を軽減しようって腹だな」
「傭兵はいくらでも金で雇えるけど、騎士たちはそうは行かない。一番合理的さ」
「ネオが居たら、絶対に反対しただろうけどな」
命を捨て駒にする様な作戦は、シンジなら決して実行したりはしないであろう。
彼ならば、皆が生きて帰れる策を練るはず。
カヲルの作戦は、より味方を効率良く殺す為の物だ。
どちらにも長所があり、そして短所がある。
今まではシンジとカヲルの短所と長所がうまくかみ合い、お互いを補い合って来たのだが、シンジがリリスを去った事で、カヲルの短所が良く見える様になった。
ネルフに遠征しているシュトース・ヴィントの騎士たちも、シンジに対して自分と同じ事を感じているかもしれない。ムサシは心の中で苦笑した。
しかし、だからと言ってカヲルが悪しき王となる訳では無い。この三年でムサシの心にも忠誠心と言う物がたしかに根付いているし、時として短所は長所となりえるのだ。
こう言った作戦は、カヲルの覇気が産み出した物だとムサシは思う。
そして、その作戦を支持しない者は、このリリス軍の中には居ないであろう。
ふと見上げた空は青く、ついこの間、雪が降ったなどとは想像も出来ない。
夏の終わり。
リリス軍を待ち受けるのは破滅か、それとも栄光か。
さまざまな思い、そして不安を抱えつつ、十万のリリス軍はゼーレへと向かって進軍して行った。
to be continued