エヴァンゲリオン戦記
Chapter 24: 交換条件
雨が降っていた。
夕方から降り始め、夜になって勢いを増した激しい雨は、地面にぶつかる度にはじけ、けたたましい音をたてている。
時折、腹に響くような雷鳴が轟き、辺りを一瞬だけ純白の世界に染めた。
そんな雨の中、男は立っていた。
煌びやかな礼服が雨を吸って体にへばりつき、男にしては艶やかな黒髪からは絶え間なく雨水がしたたり落ちている。
「何か・・・・・何か手があるはずだ・・・・・」
歯を食いしばり、彼は妻を助ける道を模索していた。
この日の昼、ネルフ王太子であるこの男は暗殺者の襲撃を受けた。
幸い、彼は傷一つ負う事なく難を逃れたのだが、彼を庇った王太子妃が毒を塗った剣で刺され、意識不明の重体になっていた。
どうやらとても珍しい類の毒が使用されたらしく、王族専属の医師も毒の種類が特定できず、治療が出来ない状態だ。
もって朝日が昇るまで。
そう医者に告げられた時、彼は頭の中が真っ白になってしまった。
彼の目の前では妻が汗で濡れた顔に苦痛の表情を浮かべて苦しんでいる。
泣き出しそうな侍女の手から手拭を奪い取ったシンジは、妻の汗を拭いながら彼女の耳元で囁いた。
「レイ・・・待っていろ・・・俺が助けてやる。それまで頑張れ。もしお前が死んだら、すぐに俺も後を追ってやる。俺に死んで欲しくなければ、絶対に死ぬな」
医師に妻の事を頼んだシンジは、頭を冷やす為に今、こうして雨に打たれていた。
「毒の種類さえ分かれば・・・・」
ネルフの医療技術は、大陸諸国と比べてかなり高い位置にある。
初歩的な物ではあるが、手術などの高度な医療を行える医者もかなり存在し、薬や毒物などの研究もかなり活発に行われていた。
ゲンドウがこれらを奨励していた結果だ。
しかし、事情はゼーレがネルフを占領した事により一変した。
占領当時、ネルフの医師達は強制的にゼーレ兵士達の治療をさせられたのだが、ゼーレ人達は医師らの多くを治療中に斬殺してしまった。
これには理由がある。
ゼーレは文化レベルがネルフほど高水準ではなく、医療技術は後進国と言ってよい水準であった。その為、彼らは「手術」と言う物を見た事が無かったのだ。
傷ついた仲間の腹部を切り裂き、なおかつそこに手首を突っ込むネルフ人医師を見て、その戦友が逆上し、医者を切り殺してしまうのだ。
もちろん、腹を大きく切り開けられたままの患者が助かるはずもなく、彼らもまた時を置かずしてして死んで行った。
言い訳も出来ずに医者達は切り殺され、ゼーレ人は「ネルフ人の医者は治療とみせかけて患者を殺す」と噂しあった。
何回かこう言った悲惨な出来事が繰り返された後、歴史上稀に見る『医者狩り』が占領軍によって行われた。
三年後、ネルフ首都が国土解放軍とリリス軍によって解放された時、医師の数は占領前の三分の一にまで落ちていた。
こうして深刻な医者不足にネルフは苦しむ事になる。
以前、王家専属だった医者も殺されており、今の医者は以前町医者をしていた者だ。
複雑な医療を行えるはずもなく、ましてや珍しい毒の知識など皆無に等しい。
本来であれば医師達に知識を授けてくれる本も、ゼーレ軍の焚書によって大半が失われてしまった。
焼け落ちた王立図書館を見て、軍師リツコは涙を流したと言う。
「くそっ!!八方塞がりかっ!!」
壁に拳を叩きつける。
鈍い痛みが拳から駆け上がり、苛立つシンジの頭を少しだけ冷静にしてくれた。
「毒!毒!毒!毒に詳しい人間!!」
知識ならリツコも普通の医者ぐらいの物は持っているが、さすがにレアな毒などになると症状などから特定する事が出来ない。
毒に詳しい、毒のプロでなければ無理であろう。
ふと、シンジは壁に拳を叩きつけるのを止めた。
「居た!居たぞ!!プロが!これ以上無いプロがっ!!」
言うが早いか、シンジは城内に飛び込んだ。全力疾走で来た道を戻る。
目指すは自室。
彼は部屋に飛び込むと、かすかに感じられる気配へと向けて叫んだ。
「エレボス!!出て来いエレボス!」
次の瞬間、空気が動く気配と共にシンジの首筋めがけてナイフが投擲された。
それを難なく避けたシンジはエレボスが驚愕するようなスピードで彼女に近づき、右手で彼女の首を締め上げた。
「ぐ・・・・あ・・・・」
気管を締め上げられ、動脈にも圧迫を受けたエレボスが、苦しげに顔を歪める。
彼女のつま先は、すでに地面についていなかった。
「お前の仲間がやったのか?」
殺気の篭った目で睨まれ、エレボスは怯えた。
エレボスも、この日の昼に刺客がこの王太子を狙った事は知っていた。
だが、彼女の仲間は彼女を残して全員が死んだはずだ。それに、警備兵の中に潜りこませるなどの工作を行っていたとシャムシエルから聞いた事も無い。
「・・・ち・・・が・・・」
エレボスは声を出そうとしたが、声が出ないので首を振って答えた。
次の瞬間、彼女の首を締め上げていた手が離れ、彼女は大きく息を吸い込んだ。
「かはっ、かはっ」
咳き込むエレボスの両肩をシンジが掴む。
「頼む!妻を・・・・レイを助けてくれ。彼女の体は毒に犯されているんだ。お前なら、暗殺に使う毒の特定が出来るだろう?解毒も出来るはずだ」
「な・・何を・・・」
「分っている。ゼーレ側の人間であるお前が敵国の王太子妃を助ける意味が無いのは・・・。だから・・・・お前がレイを助けてくれたなら、俺の命を差し出そう。お前に大人しく殺されてやるから、レイを助けてくれ、頼む!」
エレボスには、この王太子が言っている意味が理解出来ない。理性的に考えて、国にとって必要なのは王太子妃より王太子の方に決まっている。
王家の血を継いでいるのはシンジなのだから、妃は誰であろうと構わないはず。
確かに、レイもリリス王家の血を引いているのだから、リリス王家との繋がりが大切なのは分るが、それでも肝心のシンジが死んでしまえば意味が無くなる事だ。
王太子妃もそれが分っていたから、自らの体を盾として投げ出したのではないのか。
「レイを助けてくれ」
それでも、エレボスは綺麗だと思った。
理性的に考えれば、狂っているとしか思えない事を口にしている王太子の涙が。
そこには、純粋に誰かを想う心が感じられた。
「案内してください・・・・王太子妃の所へ・・・」
何かを思い出したかのように、はっとしたエレボスが呟いた。
彼女はなぜ王太子の不可解な行動について考えていたのだろうか。
実力では敵わない王太子からの提案は、彼の命を狙う彼女にとって願っても無い申し出だったのに。
さっさと彼の妻を治療し、彼の喉を引き裂けば良いではないか。
「本当か!?感謝する!!」
ぱっと顔を輝かせたシンジが、彼女の手をとって部屋を飛び出した。
いきなり手を引っ張られたエレボスは、前につんのめるような格好で引っ張られて行く。
部屋の外で立っていた近衛兵は、中から王太子に続いてもう一人女性が出て来たのを見て、腰を抜かさんばかりに驚いた。
王太子は一人で中に入って行ったし、自分達はそれ以前には一人も人間を中へ通していないはずなのだ。
目を丸くして驚く近衛兵達をよそに、二人は廊下を駆けて行った。
リリス、首都メルクリウス
「ネルフに送った使者は?まだ帰って来ていないのかい?」
「それが、ネルフは混乱を極めておりまして、今だ・・・・」
「使者は何人送っても良い。早くリリスの危機的状況を知らせ、なんとしても援軍を送ってもらわねばならん」
リリス国王、カヲルは執務室から見渡せる王都に悲痛な視線を向けた。
「陽動・・・・・とは、考えられませんか、陛下」
側に控えて国王と諜報部主任との会話を聞いていたケイタが口を開いた。
「その可能性はある。だが、陽動にしては兵力を集中しすぎている。別働隊が動いていると言う情報も全く無い。やはり敵対国家を一つ一つ各個撃破して行く戦法に切り替えたと言うのが一番しっくりと来るのさ」
そして、最初に選ばれたのがリリスだとカヲルは続けた。
「『草』を何人も犠牲にして手に入れた情報によると、ゼーレを挟んで向こう側にある数ヶ国は連合を組んでまだ生き残っているらしい。ゼーレが攻めあぐね、大規模な兵力を国境付近に配置している事も分った。恐らく、ゼーレは手を広げすぎて泥沼化した戦況を打開する為に、戦力を集中させようとしているんだろう。さしあたって、反撃する力が残っていないネルフから撤退し、その兵力を上乗せし、再編成した軍をリリスに送ってくるはずだ」
この時、リリスはゼーレ国内で大規模な遠征の準備が行われていると言う情報を掴んでいた。
リリスとの国境に近い場所で集結しつつあるゼーレ軍の動きをキャッチしたカヲルは、即座に出陣の準備を行い始めたのだ。
国内の固めを強化するのでは無く、集結中のゼーレ軍を叩く事にしたのである。
兵力とは、その規模が大きければ大きいほど編成するのに時間が掛かる。そして、編成中こそが、最も無防備な状態でもあるのだ。
今のリリスでは、集結しつつあるゼーレ軍と戦う事は不可能である。そこでネルフの戦力を借り、無防備な状態のゼーレ軍を叩きたいのだが、今だネルフとの連絡がつかないでいた。
ゼーレ軍の編成が終わるのが半月先か、一週間先か、それとも明日なのか。
カヲルは焦っていた。
「何故・・・・どうしてシュトース・ヴィントは帰って来ないのだ!」
ケイタと同じく、話を聞いていたリリス将校が吐き捨てるように言った。
ネオが手塩にかけて鍛えた『彼』の軍団は、リリスではトップクラスの騎士団であった。
彼らが居るのと居ないとでは、ゼーレとの戦いの結果が大きく違ってくるであろう。
そんな彼らが、任務を果たした後もネルフに滞在している事は、軍部上層部に少なからぬ動揺をもたらしていた。もちろん、シュトース・ヴィントを指揮しているのがネルフ人であるネオであると言う事も、その動揺に拍車をかけていた。
「彼等には彼等の事情があるのだろう。何かしらの理由で帰って来られない可能性もある」
自らの発した言葉にカヲルは苦笑した。
カヲルには、こうなるのが目に見えていたからだ。
もしネオがネルフに残ると言えば、シュトース・ヴィントも彼に付いてネルフに滞在したがるであろう事が。
リリスでネオを危険視していた連中は、今ごろ反対に喜んでいるかもしれないとカヲルは思う。何故なら、ネオ親派がリリスから一掃されたのだから。
カヲルとネオの間では笑い話にすらならない事を、本気で心配する連中がリリスには居る。
彼にとっては忌々しい限りだ。そんな連中の事を無視できるだけの力を持って居ない自分にも腹が立つ。
もし、彼に力があったなら、決してネオをネルフへ送り出しなどしなかっただろう。
ネオは彼にとって恩人であり、そしてかけがえの無い友人なのだから。
「軍の編成はどうだい?」
視線を窓の外から室内へと戻したカヲルは、ケイタに問うた。
「現在、ムサシが全力で編成しておりますので、明後日には準備が整う予定です」
「そうか・・・できるだけ急ぐように。それから、傭兵部隊はどうなっている?」
「はっ、今回もまずまずの集まりで、編成も明日までには完了する予定です」
「マナからは、今回も出陣出来ないとの連絡を受けているが、何処か具合が悪いのかい?この所、まったく顔を見ないし、連絡にも使者を寄越すだけだからねぇ」
「そ・・・それは・・・・その・・・元気は元気と言うか・・・でも・・・」
言葉を濁すケイタに、カヲルは首を傾げた。
「まあ良いさ、優秀な指揮官が居ないのは困るが、体調が優れないのでは仕方がない」
後で詳しい事は聞くよと視線でケイタに合図したカヲルは、諜報部主任に何としてもネルフと連絡を取るように言ってから編成中の軍の視察へと出かけて行った。
ゼーレ南部、ネルフとの国境付近
「やっぱり思った通りですね、師匠。ネルフとの国境を守っているはずの兵力が、かなり削られている」
国境を見下ろす崖の上で、青年がゼーレの国境守備軍を見下ろしていた。
「街で入手した情報が正しい証拠だな。今ごろ、リリスとの国境にはゼーレ兵がわんさかひしめいている筈だ。親書を届けてやるついでに、この情報もネルフに渡してやるか」
青年の隣に立つ男が、顎の無精髭をさすりながら言った。
「無償で・・・ですか?」
「ああ」
「珍しい事もあるもんですね。北方同盟からはしこたま絞り取ったのに」
「ちょっとな・・俺の個人的な問題だ。それより、そろそろ行くぞ」
二人は崖から離れると、茂みの中を南へ向かって進み始めた。
一説には、この時期リリスの使者がネルフへと辿り着けなかったのは、ゼーレが二国の連携を恐れて国境で使者を消していたと言われている。
しかし、ゼーレとネルフ、またはリリスとの国境ならばいざしらず、リリスとネルフの国境付近をゼーレ兵がうろうろしていて目立たないはずがない。
実際はリリス国内の反ネオ派が、シュトース・ヴィントとの連絡を断ち切る為に動いていたと考えるのが自然だ。彼らであれば、何も国境付近で使者を消さずとも、送り出したふりをする事も可能だからだ。
とにもかくにも、こうしてゼーレの動きはリリスの使者では無く、この二人によってネルフへと伝えられる事になる。
ネルフの首都ジオフロント
四肢が引き裂かれるような感覚が消え、変わってフワフワと浮遊しているような感覚を感じる。
呼吸が楽になり、空気が美味しいとまで感じられるようになった。
かすかではあるが、周りの人間の声も聞こえてきた。つい先程までは、苦しさで意識をそちらへ向ける余裕すらなかった。
ただ、夫が自分に死ぬなと言ってくれていたのはしっかりと覚えている。
その言葉があったからこそ、彼女は苦痛に屈して楽になろうと一歩踏み出す事をしなかったのだ。
右手に暖かさを感じて、彼女は重たい瞼をゆっくりと開いた。
朝日の差し込む部屋の中、まず心配そうに彼女の右手を握り締める夫の姿が見えた。
普段の凛々しい彼からは想像も出来ないほど憔悴しきって、心配そうに自分を見つめている夫に、胸が熱くなった。
「私はもう大丈夫です、殿下」
そう言おうとしたが、口がうまく動いてくれない。
もう一度口を開こうと試みた時、彼女の華奢な体は夫によって抱きしめられていた。
「良かった、レイ。もう駄目かと思った・・・・・」
強く抱きしめられたレイは息苦しさを覚えたが、それは先程までとは違い、至福とも言える苦しさを彼女に与えた。
肩に滴る熱い雫に、彼女の意識は焼き切れそうになる。
夫の肩越しに、ネルフの重鎮達の姿が見えた。
皆一様に喜びの表情を浮かべており、ミサトなどは涙を浮かべている。
開け放たれた部屋の扉の向こうに、髭を生やした男性が立っていたが、レイが視線を向けると二ヤリと笑って歩き去って行った。
恐らく、部屋の中にいる面々は国王が様子を見に来ていた事に気付いていないだろう。
アリシア、ローザの二人はわんわんと泣き声を上げている。セトはまだ何が起こっているのか理解出来ておらず、キョトンとした目でレイを見ている。アリシアは気丈に泣くまいと堪えてはいるが、彼女の目には溢れんばかりに涙が溜まっていた。
レイは自分が必要とされているのを感じ、あまりの幸せに涙した。
この時、辛かった幼少期の思い出は彼女の心からやっと払拭されたのだ。
なんとか皆に感謝の気持ちを伝えたかったが、体が言う事をきかない。それに加え、よほど体が消耗しているのか、猛烈な眠気が彼女を襲った。
夫の腕の中で眠気と戦いながら、体が汗でしっとりと湿っている事にレイは気付いた。
自分が汗臭くなってはいないだろうかと妙な心配をしている内に、彼女の意識は眠りの国へと落ちて行った。
レイの意識が戻ってからと言うもの、シンジは寝る暇も惜しんで彼女の世話と、政務をこなして行った。
昼間は細々とした政務を父に代わって処理し、その合間にリツコと改革案や復興案を練る。
休憩時間はかならずレイの部屋に行き、彼女の回復振りを確かめた。
レイは順調に回復して行き、一週間も経つと城内を歩き回れるまでになった。
そうなると、二人はまるで失われた時間を取り戻そうとするようにいつも二人で行動するようになり、シンジが机で政務に励んでいると、レイが甲斐甲斐しくお茶を運んだり、シンジが暑くないように団扇で扇いだりと夫にベッタリと張り付いて離れない。
シンジの方もまんざらでもなく、まだ本調子でないレイの体を心配しながらも、レイの煎れたお茶を飲んで頬を緩めたり、団扇で扇ぐレイの額に汗が浮いたりすると、彼女の手から団扇を奪って反対に彼女を扇いだりした。
あまりレイがシンジにベッタリなので、レビアなどは焼き餅を焼いてふてくされ、ローザに八つ当たりして彼女と大喧嘩になったりした。
そして、ここに複雑な気持ちをもてあました人物が一人。
「は〜あ、アタシ何やってるんだろう・・・・」
非番と言う事もあり、鎧は着けずに剣だけを腰にぶら下げたアスカは、見晴らしの良い城壁の上に腰掛けていた。
ゼーレと戦う為にネルフに亡命したは良いが、ゼーレを追い出す事に成功してからこちら、この国は平和そのものだ。
ジオフロントの美しい町並みを見ていると、闘志が萎えて行きそうになる。
シンジをからかって暇つぶしでもしようと考えたりもしたが、レイがべったりとくっついている為に断念した。
夫婦間がうまく行っているのは良いのだが、なぜかむしゃくしゃする。
イライラして来たのでこの場所に来たのだが、出て来るのは溜息ばかりだった。
「アースカ、そんな所で何やってるのよ?」
いつの間にか近寄ってきていたミサトが、彼女に声を掛けてきた。
「なんだ、ミサトかぁ」
「なんだとはご挨拶ね、せっかく様子を見に来てあげたのに」
「あんたも暇ね」
城壁の上にだらしなく寝そべったアスカが、ミサトに顔を向ける事もなく答えた。
ヒンヤリとした岩が、夏の太陽で火照った体を冷やしてくれる。
「アスカだけには言われたくないわ。花も恥らう乙女が、こんな所で何を腐ってるのよ」
ガチャリと鎧を鳴らして腰掛けたミサトは、近頃元気のないアスカを見て首を傾げた。
「な〜んかスッキリしないのよ」
「ああ、なるほど、そう言う事か。私もなのよね〜。この間リツコから薬もらったから、それアスカも飲んでみたら?スッキリするわよ〜」
「はぁぁ?」
「へ?何?違うの??」
「何が?」
「アスカもべん・・・・ぐはっ!!」
次の瞬間、ミサトは剣が入ったままの鞘で顔面を殴られていた。
「あんたバカァ??」
城にアスカの怒声が響き渡った。
日が沈んでしばらくした頃、ようやくシンジはこの日の政務を終えた。
彼の机の上には、いくつかの裁判の書類と、この数日間もっとも力を入れてきた復興案、そして改革案の草案が並んでいた。
羽で作られたペンをペン立てに戻し、彼は満足げな笑みを浮かべた。
「あとはこれを父う・・・陛下にお渡しするだけだ」
暫く二つの分厚い草案を眺めていたシンジは、視線を執務室のソファーで居眠りしている妻へと向けた。
今日はいつになく仕事に没頭してしまったので、ろくに妻にかまってやる事も出来ず、彼女は二時間ほど前からウトウトしていたが、今は熟睡してしまっている。
椅子から立ち上がった彼は、妻を起してしまわないように優しく彼女を抱き上げると、彼女の寝室へと向かった。
食事はまだとって居なかったが、気持ち良さそうに寝ている妻を起すのも気が引けたので、そのままベッドへ運ぶ事にした。
彼女の分の食事は、後で侍女にでも部屋に運ばせれば良い。
すーすーと腕の中で寝息を立てる妻を見ていると、愛おしさがこみ上げてくる。
この二週間ほどは、本当に楽しかった。
「殿下」と寝言を呟いて口元を緩めるレイも、きっと同じ気分なのだろう。
だからこそ、彼は悲しそうな目をし、こう言った。
「すまない、レイ」
寝室に辿り着いたシンジは、レイを起さないようにゆっくりと彼女をベッドの上に下ろした。
奇しくもこの夜は満月で、窓から差す月光が部屋を蒼く染めている。
ふとデジャブのような感覚を覚えたシンジは、窓に近寄って月を見上げた。
目を閉じて、三年前を思い出す。
「ああ・・・・あの夜もこんな満月の夜だった・・・・」
ヒンヤリと冷たい窓ガラスに置いていた手に、後ろから伸びてきた手が重なった。
「殿下は今、生きていて良かったと・・・そう思いますか?」
シンジの背中にそっと寄り添ったレイが、三年前と見違えるように広くなったシンジの背中に頬を押し付けた。
「私は今、幸せです」
「俺も・・・・いや、僕も幸せだよ。ずっと・・・こんな日々がずっと続けば・・」
振り返ったシンジは、レイの腰に腕を回して抱きしめた。
頭一つ分背が低いレイは、シンジの胸に顔を埋める格好になった。
「殿下、お慕いしております」
「僕も、レイの事が好きだよ」
シンジはゆっくりと、彼を潤んだ目で見上げるレイに唇を近づけてゆく。
レイも目を閉じて、爪先立ちになる。
二人の唇がゆっくりと重なった。
「んっ・・・はぁ・・・」
唇が離れると、レイの口から熱の篭った吐息が零れる。
「殿下、一つだけ我侭を言っても良いですか?」
「何?僕に出来る事なら、なんだってしてあげる」
「わたくし・・・・、殿下のお子が欲しいです」
頬を真っ赤に染めて、消え入りそうな声でレイが言った。
「レイ・・・・」
もう一度、今度は情熱的なキスをしたシンジは、レイを抱き上げてベッドへと運んで行った。
眩しい朝日の中、先に目を覚ましたのはレイだった。
瞼を開けると、彼女がこの世で一番愛している人の顔が見えた。
そっと手を伸ばして、彼の黒髪に触れる。
「う・・・・ん」
こそばかったのか、彼女の夫は顔をしかめた。
それを見て、なぜか彼女は可愛いと感じ、今度は自分の長い蒼銀の髪を掴んで彼の鼻をくすぐり始めた。
「ふぇ・・・っくし」
よほど熟睡しているのか、シンジは目を覚ます気配がない。
クスリと笑ったレイは少し体をずり上げると、彼の頭を胸に抱きかかえた。
体を動かした時、下腹部に違和感がして、頬かカッと熱くなる。
素肌にじかに当たるシンジの吐息がくすぐったかったが、今のレイにはそれすら愛しく感じられる。
いつもであれば、すでに侍女がレイを起す為に部屋に入って来ている頃だが、気を利かせているのか今日はもう日が高くなり始めていると言うのに誰も入って来る気配が無かった。
もう少しこのまま幸せを噛み締めていられると嬉しくなったレイは、いつまでも飽きる事なく夫を抱きしめていた。
シンジが自室に戻ったのは、昼を少し回ったころだった。
あの後しばらくして目が覚めたシンジは、レイと遅めの朝食を取り、リツコに会って昨日完成した草案を渡してから部屋へと戻って来ていた。
彼は今、机の前に座り、最後の言葉を紙に書き記している。
ふと、後ろで空気が動く気配がした。
「エレボスか・・・・・」
答えは無い。
「もう少し待ってくれないか。あと少しで書き終わる」
後ろを振り返らず、シンジは黙々と遺書を書き続けた。
最後の一通を書き終えると、彼はゆっくりとペンを下ろし、後ろを振り返る。
そこには、初めて日の光の下で見るエレボスが立っていた。
彼女は頭巾をしておらず、美しくも妖艶な顔をさらしている。
「今まで待っていてくれたんだな、ありがとう」
シンジが礼を言うと、エレボスは無言でファルシオンを抜く。
そしてゆっくりとシンジに近寄り、首筋に刃を突きつけた。
「死ぬのが怖く無いのですか?」
「怖いさ・・・・。思い残す事も沢山ある」
「なら、なぜ私を殺して生き延びないのです」
「約束だからね」
そう言ってシンジは目を閉じた。
「あの時、本当に俺は自分の命と引き換えにしてもレイを助けて欲しいと神に祈ったんだ。そして、君がレイを助けてくれた。なら、俺が命を差し出さなければバチが当たる」
体にどうしても力が入ってしまうので、緊張を解す為にシンジは大きく深呼吸した。
「これから君はどうする?」
「何故そんな事を?」
「いや、ただ少し気になっただけだ」
「貴方は、私に居場所をくれると言いましたね」
「ああ、確かにそう言った」
エレボスはシンジに突きつけていたファルシオンを降ろし、鞘に戻した。
「シャムシエル様が亡くなり、私にはもう戻る場所はありません。たとえ私が貴方を殺してゼーレに戻ったとしても、恐らく用済みになった私は消されるでしょう。そう言う国なのです、あそこは・・・」
「では、ネルフに亡命してくれるのか?」
「・・・・・・」
エレボスはシンジから目をそらすと、自分の髪の毛を弄り始めた。
「この二週間、貴方を殺そうと思えばいつでも殺せました。でも・・・・私には出来なかった・・・・・。いつも命令があれば、躊躇う事なんて無かったのに・・・・」
一旦言葉を切ったエレボスは、今度は真っ直ぐにシンジの目を見つめた。
「どうやら私は、貴方に恋してしまったようです。ですから、貴方の奥様を治療した事の見返りに・・・・・・・・貴方の・・・貴方の心の片隅に、私の居場所を下さい」
始めて意識したのは、最初に彼と戦った日の朝だった。眠っている彼の顔を見て、なぜか鼓動が早くなった。
千載一遇のチャンスだったと言うのに、彼を殺す事を躊躇ってしまった。
その時は、何故自分が生かされているのか分らなくて困惑しているだけだと思ったが、この数週間彼を見つめ続け、昨夜レイとの情事を見せ付けられて初めて自分の感情を知ったのだ。
エレボスはシンジに近寄ると、躊躇う事無く唇を重ねた。
昨日の今日と言う事もあって、気恥ずかしさでシンジに一日ベッタリしている気にならなかったレイは、自室で編物を始めていた。
少し気が早い気もするが、赤子用の靴下だ。
手先の器用な彼女は、すでに片方の靴下を編み上げていた。
もう片方を編んでいる最中も、時折編みあがった方に頬擦りしては頬を緩める。
めったに聞けない彼女の鼻歌は、彼女の部屋の扉がノックされた事で中断された。
侍女が扉を開けると、そこに立っていたのは先日彼女の治療をしていた医師だった。
レイが彼を部屋に招き入れると、彼はどこか居心地の悪そうな顔をして勧められた椅子に座った。
「今日はどのようなご用件でしょうか?」
挨拶をした後に黙り込んでしまった医師に、レイが聞いた。
彼女としては、もう体も完治していることなので、早く医師に帰ってもらって編物の続きをしたかったのだが、医師は黙ったまま額に浮かんだ汗を拭っている。
「その、大変言いにくい事なので・・・」
レイの顔を正視出来ず、目をそらした医師の言葉が途中で止まった。
彼の視線の先には、編みかけの靴下がある。
「そ、その、これは確実かどうか分らないのですが・・・もしかしたら、間違っている可能性も・・・」
要領を得ない医師の言葉に、レイは首を傾げる。
医師は靴下を見てから明らかに様子がおかしい。汗の量が増えたし、顔も青ざめている。
これではどちらが医者で、どちらが患者なのか分らない。
「はっきり申し上げさせて、い、いただきますと、前回の毒で内臓がかなり痛んでしまっておりまして・・・・そのう・・・・妃殿下のお体では、お子様を宿す事が大変難しくなっております・・・」
医師の言葉を聞き終わったレイの頭の中は真っ白になってしまった。
足元の地面が音を立てて崩れて行く、そんな衝撃が体に走った。
「そ、それはほ、本当なのですか?」
声が震えるのを止められない。
「はい・・・残念ながら・・・。お子様を宿せる望みは薄いかと・・」
「・・・・・・っく、うう・・・」
堪えきれず涙を流し始めたレイを見て、医師が慌てる。
「妃殿下、御気を落さないで下さい。可能性がゼロになった訳ではありません、根気良く努力を続ければ、お子様を授かる可能性は残されております」
医師としては、こんな残酷な事を伝えずにすむのであれば、伝えたくは無かった。
だが、王家の専属医師として、伝えない訳には行かなかったのだ。
レイが子を産めるかどうかと言う問題は、レイとシンジの個人的な問題ではなく、ネルフと言う国の将来にも関係してくる重大な問題なのだ。
だが、実際に目の前で涙を流す王太子妃を見て、彼の心はひどく痛んだ。
「今日はこれで失礼させて頂きます、後日、またお体の具合をお伺いしに来させて頂きますので」
レイには事実を消化する時間が必要だと思った医師は、立ち上がって一礼すると、ゆっくりと部屋から出て行った。
部屋に残されたレイは編みかけの靴下を抱きしめ、号泣した。
「殿下・・・殿下・・・殿下ぁ・・・」
悲しみに押しつぶされそうな彼女は、夫を呼び続けた。
To be continued….