ある有名な占い師を呼んだゼーレ国王キールは、占い師にこう尋ねた。
「私はいつ死ぬのか?」
すると占い師はこう答えた。
「陛下はネルフ王国の祭日にお亡くなりになるでしょう」
それを聞いたキールは、少し考えてからこう言った。
「そうか、それならばネルフの祭日には、私の護衛を百倍にしよう」
占い師は溜息をつくと、哀れむように言った。
「陛下、貴方のお亡くなりになる日が、ネルフの祭日となるのです」
コキュートス陥落前、ネルフで流行したジョーク
エヴァンゲリオン戦記
Chapter 25: 過去
シンジは柔らかな感触を唇に感じた。
妻のそれとは違う、ふっくらと包み込むような唇の感触。
「あ・・・・」
自分の想いを敵国の王子にぶつけていたエレボスが、切なげな声を上げた。
シンジが彼女の肩に手を置くと、ゆっくりと、しかし力強く彼女を引き離したからだ。
湿った音を立てて、二人の唇が離れた。
「すまない。俺は君の希望に答えてやる事は出来ない」
「どうして・・・・・」
「俺には妻がいる。一度彼女を裏切って傷つけてしまった。もう二度と、彼女を裏切りたくないんだ」
拒絶の言葉を前に、エレボスは肩を震わせながら俯いた。
「私に居場所をくれると・・・おっしゃられたでは無いですか・・・」
「本当にすまない。けど、君には違った居場所なら与えてあげられる。新しい仲間と、新しい生活を」
肩膝を床につけたシンジはエレボスの手を取ると、下から俯いたままの彼女を見上げた。
「君は薬の知識を持っていて、特殊な戦い方も出来る。この国には君のような人材が必要なんだ。もちろん、俺も君のような人材は喉から手が出るほど欲しい」
王太子妃が毒殺されかかった事によって、ネルフは改めて医者不足を認識した。
もしゲンドウやシンジが毒に犯された場合、彼らを治療出来る人間がネルフには居ないのである。
今回、レイを治療したエレボスの手際は見事な物で、彼女のような知識を持った人間がいれば、毒殺される危険性はかなり低くなるだろう。
また、国を取り戻したばかりとは言え、ネルフには情報収集機関が一つも無かった。このため、まともな諜報活動が行えないでいたのだ。
王太子の軍師は、早急に諜報機関を立ち上げる事を提案していた。
もちろん、軍師はすでにシュトース・ヴィントの隊員数名で小規模な諜報機関を作ってはいたのだが、一部隊が必要な情報量と一国が必要な情報量では大きな違いがある。
情報を制する者は戦を制す。
軍師のこの言葉の重みを、実際に的確な情報によって大勝利を収める事に成功したシンジは骨身に染みて理解していた。
諜報は攻める為だけではなく、守る為にも必要である。
こちらの情報が敵に漏れる事を防ぎ、そして偽の情報を流して敵を欺く。
そういった活動をする為に、エレボスは必要不可欠な人材となるはずだ。
自分は死んでも良いと考えていた事など忘れて、シンジは彼女にネルフに残って欲しいと熱心に口説いた。
「殿下、貴方は正直な人なのですね」
エレボスは溜息をついた。
「私を抱いて、自分の為に働けと命令すればそれで済んだでしょうに」
そう言って何処かふっきれた様な笑みを浮かべる。
「分りました。殿下の為に働かせていただきます。でも、殿下の事を諦めた訳ではありませんよ。私は今まで狙った相手を逃した事が無いんです。覚悟しておいてくださいね」
シンジもほっとして立ち上がると、改めて右手を差し出した。
「よろしく、エレボス」
「マユミとお呼び下さい、殿下」
マユミは差し出された手を両手で包み込んだ。
「あ、ああ。よろしく、マユミ」
「こちらこそ、殿下」
こうしてこの日から、エレボスことマユミ・ヤマギシはネルフの諜報活動を統括する立場となって働き始めた。
彼女は表向きには薬師として働き、シンジから要請があった時は陰となって情報収集や暗殺を努める事になる。
城の一角に、王の執務室はある。
広い部屋には大きな机と小さな机の二つが置かれており、大きな机でネルフ国王は政務に励んでいた。
小さく、明らかに後からそこに運び込まれたと分る机には、軍師であり宰相でもあるコウゾウが座っており、右腕を失った国王が口頭で述べる事を紙に書き記していた。
目を通さねばならない書類は山のように机に積み上げられ、ゲンドウは左手で書類に判子を持って、次から次へと書類に判を押してゆく。
これで細々とした事をシンジとリツコが処理していなければ、二人は過労で倒れていた事だろう。
コウゾウの机の上には空になったインクの瓶がいくつも転がっており、彼は時折ペンを走らせる手を止めては肩を叩いている。
独り言のようなゲンドウの声と、コウゾウがペンを走らせるカリカリと言う音だけが響く執務室に、ノックの音が響いた。
「入れ」
区切りの良い所でペンを止めたコウゾウが言うと、扉が開いて王太子の軍師が入って来た。
彼女はゲンドウの机の前まで進むと深々と頭を下げ、脇に抱えていた書類をゲンドウへと差し出した。
「王太子殿下が立案された復興案でございます」
「復興案か。分った、後で目を通すとしよう」
書類を受け取ろうと手を伸ばしたゲンドウの手が、彼女の顔を見てピタリと止まった。
「そなた・・・・・。もしやナオコ殿の・・・・・」
ナオコと言う名を聞いたリツコの肩が、ピクリと跳ね上がる。
「はい・・・・・。ナオコは私の母でございます」
少しの躊躇の後、リツコは答えた。
「やはりそうか。最後に卿に会ったのは、まだ卿が小さかった頃だったな」
「はい、陛下の事は良く覚えております」
「ナオコ殿はご壮健か?」
「母は・・・・母はもう何年も前に亡くなりましてございます」
「なんと!亡くなられたのか・・・・・。ナオコ殿には色々と世話になった。落ち着いたら、墓前に花でも添えさせてもらおう」
「・・・・・・・・」
ぬけぬけと何を言うのか。
そう怒鳴りそうな自分を必死に押さえつけたリツコは、失礼しますとだけ言い残して執務室から出て行った。
再び二人だけになった部屋で、コウゾウは苦笑した。
「しかし、まさかナオコ殿のご息女が、殿下の軍師を勤めているとは・・・・。運命とは皮肉な物だな」
ちらりとゲンドウを見てみると、無表情で書類に判を押している。
コウゾウは溜息をついた。
前回ゼーレがネルフを占領した時、ゲンドウとコウゾウは今回と同じようにシャーウッドの森に立て篭もり、ゼーレと戦った。
戦力的に圧倒的不利であったゲンドウ達は、力のある貴族との強い繋がりが必要不可欠であった。彼らの協力無くして、勝利などありえない。
ある時、一番力の強かった貴族がゲンドウに結婚話を持ちかけてきた。その貴族の娘と結婚しろと言って来たのだ。
戦争に勝利すれば、ゲンドウはネルフ国王となる。王妃の父となれば、ネルフで大きな権力を持つ事が出来る。
これは完全な政略結婚である。
だが、貴族の娘は密かにゲンドウに想いを寄せていたらしく、この縁談には父以上に乗り気であったと言う。
しかし、この縁談には二つ問題があった。
一つは、その貴族の娘は未亡人で、すでに前の夫との間に子供が一人いた事。
そして二つ目は、ゲンドウには既に想い人がいた事だ。
ゲンドウの想い人とは、コウゾウの愛弟子であり、女性ながら騎士団一の剣の使い手であるユイであった。
縁談を断れば戦争に負ける。さりとてユイを裏切る訳には行かない。ゲンドウは悩みに悩んだ。
だが事態は以外な方向へと進んで行く事になる。なんとユイが姿をくらませたのだ。
置手紙には、ゲンドウはしかるべき身分の女性と結婚するべきで、自分のような人間とは結ばれてはいけないと書いてあった。
どうやらユイは自分の存在がゲンドウにとって邪魔になってしまうと思ったようだ。
彼女の母が娼婦であったと言う事も、彼女にそう思わせる一因であったのかもしれない。
もちろんゲンドウは必死に彼女を探したが、彼女を見つける事は出来なかった。
結局ユイが身を引き、ゲンドウが貴族の娘と結婚する事で話は終わると思われたのだが、彼は結婚する事を良しとしなかった。
なんとゲンドウは縁談を断り、その貴族の援助無しで戦争に勝利したのだ。
戦後、ゲンドウに協力しなかったその貴族は没落し、政治の表舞台から姿を消した。
それと共に貴族の娘、ナオコの行方も分らなくなっていたのだが、まさかナオコの一人娘がユイの息子であるシンジの軍師として仕えているとは。
コウゾウは運命の皮肉さを感じた。
「世が世なら、姉と弟となっていたやもしれぬのにな・・・」
ゲンドウに聞こえぬほど小さな声でつぶやいたコウゾウは、また黙々と書類にペンを走らせ始めた。
「何かあったのか、レイ?」
レイと一緒に食事をしていたシンジは、いつにも増して無口なレイを心配して声をかけた。
今日の料理は野菜を主体とした物で、レイが苦手な肉料理は少ない。料理が口に合わないと言う事は無いはずだ。
「いえ、何でもありません」
小さな声で答えたレイの皿には、料理がほとんど手つかずの状態で残っている。
何でも無いと言われても、とてもそのようには見えない。
「少し食欲が無いだけでございます」
そう言ってぎこちなく笑って見せるが、心なしか顔色も悪く見えた。
まさか毒に犯された後遺症が出て来たのかと心配になったシンジは、彼女の状態をマユミに見てもらおうとしたが、レイは本当に大丈夫だと言って部屋へと戻って行った。
自分が子供を産めない体になってしまった事を、レイはどうしてもシンジに伝えられないでいた。
この事を知っているのは彼女を治療した医者と、数人の侍女たちだけである。
彼らには口止めしておいたので、この事がすぐにシンジに伝わる事は無いが、王族付きの医者としては、いつまでも国の行く末に関わる大事を黙っている事は出来ないだろう。
遅かれ早かれ、レイはシンジにこの事を告げなければならない。
医者は望みが絶たれた訳では無いと言っていたが、内臓が大きなダメージを受けたと言うのはレイにも分る。治療を受けて初めて目を覚ました時に、腹部にひどい痛みを感じたのを覚えているからだ。
たとえ子供が出来るとしても、何年も先になってしまう可能性がある。
いや、何年たっても出来ない可能性の方が高いのだ。
愛する人の子供を産めないと言う事が、こんなに辛い事だとレイは初めて知った。
部屋に戻って一人になったとたん、また涙が出て来た。一日中泣いていたと言うのに、涙は尽きる事無く溢れ出る。
子供を生めなくなった事を伝えたら、シンジはどう思うのだろうか。
シンジの事であるから、その事よりもレイの体の事を心配するかもしれない。
しかし、シンジは王太子であり、ゆくゆくはネルフの国王となる身である。
その正妃が子供を産めないとなると、これは夫婦間の問題だけに留まらず、国家の問題となってくる。
当然、シンジに新しい妃をと望む声が上がるだろう。
そうなれば、自分はシンジと引き離されてしまうかもしれない。
その事に気付いたレイはゾッとした。
現在リリスとの同盟は、お互いを利用する事で成り立っている。レイが王太子の妃でなければいけない理由は無いのだ。
三年間ゼーレと戦い続けたレイは、ネルフの国民から慕われており、また共に戦った将兵達からも絶大な支持を受けているので、子供が産めないからと言ってすぐにお払い箱になる事は無いはずなのだが、彼女の思考はどんどん悪い方向へと進んで行く。
夫と引き離される。そう考えてレイは恐怖に震えた。
「それだけは嫌・・・・」
彼女が子供を産めない以上、誰かがシンジの子を産み、王家の血を残さねばならない。
ならば誰かシンジの子を産んでくれる女性を探せば良いのだ。
そうすれば、レイはシンジと引き離されずに済む。
彼女はシンジの側室を探す事を決意した。
それは女性として耐えがたい苦痛ではあるが、曲りなりにも彼女も群雄割拠の時代に生まれた王族。感情とは違った場所で、それが避け難い未来であると言う事を理解していた。
リリス首都 メルクリウス
キリキリと痛む胃を押さえながら、国王カヲルは訓練に励む兵士達を視察に来ていた。
ゼーレが着々と出兵準備を整えつつあると言う情報が次々と飛び込んで来るので、その一つ一つを聞く度にカヲルの胃が悲鳴を上げる。
自分はそんなに繊細だったのかと驚いてしまうほどだ。
実は昨夜もなかなか寝付けず、明るくなって来た頃にようやく浅い眠りにつく事が出来た。
カヲルの目の下には、クッキリと隈が出来ている。
それでも彼は胸を反らし、背筋をピンと張った姿勢で兵士達を眺めていた。
下手に憔悴した姿を見せて、周りの人間に不安を与える訳には行かないのである。
「カヲル、調子が悪いなら戻ってもいいぞ」
隣に立っていたムサシが言った。
どうやら彼はカヲルが無理をしているのが分っていたようだ。
「悪いねムサシ。そうさせてもらうよ」
「ああ、ここは任せておけ。兵士の前でぶっ倒れて、士気を下げられたらたまらんからな」
ぞんざいな言葉でも、口調はとても優しい物だった。
ムサシにその場を任せたカヲルは、休憩を取る為に自室に向けて歩き始める。
城の広場を出た所で、ふとカヲルはマナの事を思い出した。
彼女とはかなり長い間会っていない。体調が悪いと言うのが気にかかった。
カヲルも今は健康体とは言えないが、一度見舞いに行っておいたほうが良いだろう。
彼女とは内戦時代からの付き合いであるし、カヲルにとっては大切な仲間である。
それにマナの部屋は、広場とカヲルの部屋との中間あたりにあるのでちょうど良い。
部屋についたカヲルがノックすると、中から元気の良い返事が返ってきた。
体調が悪いのでは無かったのかとカヲルが首を傾げながら中に入ると、マナは窓際の椅子に腰掛けて本を読んでいた。
これにも違和感がある。マナが読書をしている所など、出会ってから今まで見た事が無い。
だが、一番の違和感は彼女の体系にあった。
異様に腹部が盛り上がっているのである。
「?????」
何故腹部が盛り上がっているのだろうか。
マナは部屋に入って来たのがカヲルだと気付いて、すこし慌てているようだ。
首を傾げたまま、カヲルはまじまじとマナの腹部を凝視する。
「マナ・・・・・太った???」
次の瞬間、ゴスッと言う音と共にカヲルの視界が揺れた。
痛みを感じる前にぶっ倒れたカヲルの目の前に、彼の頭部に向かって投げつけられた本がバサリと落ちてきた。
激痛でクラクラしている目に飛び込んで来た文字に、カヲルは驚いて飛び起きた。
「・・・・『初めての赤ちゃん』・・・・・???」
目を丸くしているカヲルを見て、マナはもう完璧にバレてしまったと天を仰いだ。
「妊娠しているのかい、君は?」
「普通、一目見れば分るでしょう?どうやったら太ったとかそう言った方向に考えられるのよ?」
「い、いや、目の錯覚かと・・・・」
「前々から思ってたけど、カヲルの目って腐ってない? 国王として、それはどうかと思うわよ」
その国王に容赦無く分厚い本を投げつけた自分の事は棚に上げて、マナは呆れて見せた。
「シンジ君の子かい?」
「・・・・・・・・・」
真顔で聞いたカヲルに、マナは答えない。いや、答えられなかった。
カヲルはマナにとっては愛すべき仲間であるが、それと同時に彼は一国の王である。将来、お腹の子供を政治の道具として見ないと断言出来ない。
たとえカヲルがどれだけその手段を取る事を嫌がったとしても、彼の立場がそれを許さない場合もあるのだ。
一方、そんな事情を知らないカヲルは、シンジとの子供が出来たと言うのに喜んでいる様子の無いマナに困惑していた。
「俺の子だよ」
もう一度口を開こうとしたカヲルが後ろを振り返って見ると、ムサシが部屋の入り口に寄りかかって立っていた。
「何の冗談だい?」
「本当さ。シンジのアホが居ない時に、ついつい手を出しちまってな」
マナが伏せていた顔を上げ、ムサシを見る。
何時になく真面目な顔をしているムサシは、とても冗談を言っているようには見えない。
すべての事情を知っている彼は、生まれてくる赤子のために嘘をついてくれているのだ。これからネルフがどうなろうとも、王太子の子であれば平穏な人生は送れないだろう。だが一介の武将の子として生を受けたなら、人並みの人生を送れるはずだ。
「本当なのかい、マナ?」
ムサシの方を向いていたカヲルが、マナに向き直って尋ねた。
「・・・・・・・・・」
「どうなんだい?」
カヲルの声が大きくなった。すこし感情的になり始めているようだ。
どうして良いか分らずにマナが黙り込んでいると、ムサシが大きく頷いてみせた。
それを見たマナは、ゆっくりと口を開いた。
「・・・・そうよ」
「!!!!」
驚愕したカヲルの顔が、怒りで赤く染まって行く。
もしそれが本当ならば、シンジがリリスを去った事に関係しているのかもしれない。
二人の仲を知ったシンジが、身を引く事はありえる話だ。
「き・・・君達は・・・・・君達は二人でシンジ君を裏切ったのかい・・・・?」
怒りと信じたくない気持ちで、カヲルの声は震えた。
「まあ、そう言う事になっちまったな」
悪びれずにムサシが答える。
「ムサシ!君とマナは兄妹だろう!?」
「血は繋がってねーよ」
「く・・・・なんて事だい・・・」
カヲルがマナを睨みつけると、彼女は目を反らした。
立ち上がったカヲルは、左手でムサシの胸倉を掴み上げる。
そのまま右の拳を握り締めると、思いっきりムサシの頬を殴りつけた。
「グハッ!!!」
ムサシの体が吹っ飛び、床に転がる。
カヲルはまだ気が済まないのか、ムサシを引き起こして何度も殴りつけた。
一方的に殴られているムサシは、反撃しようとしない。
「カヲル、もう止めて!!」
カヲルがムサシを殴り殺しそうな勢いだったので、慌ててマナは二人の間に割って入った。
女性で、しかも妊婦であるマナを払い除ける事はさすがに出来ず、カヲルはムサシから離れる。
「僕は・・・・僕は君達を見損なったよ。まさか、仲間をこんな風に裏切るなんて・・」
少し冷静になって来たのか、カヲルは二人を睨みつけながら服を整えた。
「最低だ」
それだけ言い残して部屋から出てゆく。
カヲルが部屋を出てゆくと、マナは倒れたままのムサシを抱え起した。
「ムサシ、大丈夫??」
彼の顔はひどく腫れ上がっており、鼻血が出て血だらけになっている。
「いててて・・・・。あの野郎、本気でボコボコ殴りやがった」
マナは濡らしたハンカチを持って来ると、ムサシの顔を拭い始めた。
「馬鹿なムサシ・・・・。あんな嘘をつくから」
「そう言うなよ、無い知恵を絞って考えたんだからよ。これが一番赤ん坊には良いはずだ」
「ありがとう」
「ん、あ?」
頬に暖かい物を感じてムサシが上を向くと、マナがポロポロと涙を零していた。
「こら、泣くんじゃねーぞマナ。お・・・俺はお前の兄貴なんだから・・・これくらいは当たり前だ」
照れながら言ったムサシの頭を、マナは包み込むように胸に抱いた。
「うん・・・うん・・・・ありがとう・・・ありがとうお兄ちゃん・・・・・」
ムサシは泣きじゃくるマナの背中に手を回すと、まるで子供をあやすようにポンポンと叩いてやる。
「ったくシンジの野郎、これは大きな貸しだぞ。今度会ったら絶対泣かしてやる」
ジンジンと痛む顔をしかめてムサシはつぶやいた。
ネルフ首都、ジオフロント
夜の見回りを終えたミサトは、自室に向かう途中、見知らぬ女と廊下ですれ違った。
絹のような長い黒髪と、口元の黒子が印象的なその女は、ミサトを見ると軽く頭を下げてすれ違って行った。
新しい侍女かとミサトは思ったが、そう言った話は何も聞いていない。
特に怪しい点は見当たらないのだが、ミサトの武人としての勘が騒いでいる。
「待ちなさい」
「何か?」
ミサトが呼び止めると、女は振り返って首を傾げてみせた。
「あなたは新しい侍女かしら?」
「いえ、王太子殿下に召抱えられた薬師です」
「そう・・・・名前は?」
「マユミと申します、どうぞお見知りおきを」
マユミは柔らかく笑うと、今度は深々と頭を下げて見せた。
どこか釈然としないミサトであったが、これ以上根拠も無しに質問を続けるのもおかしい。
「そう・・・・、もう夜も遅いから早く部屋に戻りなさい」
「はい、そうさせて頂きます」
もう一度頭を下げたマユミは、ミサトに背を向けて歩いて行った。
「気付かれないように振舞っているつもりだったけど・・・かなり鋭い人ですね」
廊下の角を曲がった所で足を止めたマユミは、ほっと胸を撫で下ろした。
シンジからは、マユミのもう一つの顔は隠すように言われている。
どうやら彼は、『影』の存在は誰にも言うつもりは無いようだ。これにはマユミも賛成している。敵にも味方にも隠しておいた方が色々と都合がよい。味方を監視したり、暗殺したりする事も考えられるからだ。
まだ彼女には一人の部下も居ないが、数百人単位の組織にして行くつもりだとシンジは言っていた。
自分に新しく与えられた部屋に向かおうと踏み出した足が、ピタリと止まる。
常に網のように周囲に張り巡らせている彼女の暗殺者としての感覚が、何者かの気配を捕まえたのだ。
うまく隠してはいるが、その程度では彼女の目を誤魔化す事は出来ない。
「ネズミが一匹。これが初仕事ですね」
マユミの体が闇に溶けた。
喜怒哀楽を捨てる事によって、感情の動きを無くし、それによって気配を絶つ。
体は流れる水のごとく闇の中を滑り、彼女の通った後に空気の動きは無い。
王太子暗殺に失敗したのは、マユミも気付いていなかった心の揺らぎが彼女の気配を消す事を邪魔していたのかもしれない。
今のマユミの状態は限りなく『無』に近かった。
窓から外へと滑り出た彼女は、ネズミの気配がする城の屋上へと壁を登って近づいて行く。
まるで蜘蛛のようにスルスルと屋上まで登った彼女は、月の光が反射するのを防ぐ為に黒く塗装したファルシオンを抜いた。
マユミと分かれて自室に向かっていたミサトは、かすかに剣戟の音が聞こえたような気がして立ち止まった。
「空耳かしら・・・・いや、違う!」
窓を開けてみると、かすかだがはっきりと金属がぶつかり合う音が聞こえた。
「曲者か!!」
すれ違った兵士に屋上へ増援を呼ぶように伝えると、ミサトは屋上へ続く階段を駆け上って行った。
一方、侵入者を追って屋上へと出たマユミは防戦一方に追い込まれていた。
当初一人しか居ないと思っていたネズミは、二人居たのだ。
侵入者の二人の内、背の高い方に突然後ろから襲われ、危うく命を落してしまう所だった。
二人の攻撃を紙一重で防いではいるが、このままでは埒があかない。
彼女の特技は奇襲と暗殺であって、それほど剣術に長けているとは言い難い。
もちろん平均以上に剣は使えるし、体術もマスターしてはいるが、面と向かい合っての戦い、しかも二人を同時に相手にするとなるとかなり厳しい物がある。
それに加え、彼女を後ろから襲った背の高い方の侵入者はかなりの使い手だ。彼女の後ろに忍び寄る時も、彼女に気配をさとらせなかった。
これは暗殺を生業として生きてきたマユミのプライドを強かに傷つけた。
一旦退いて応援を呼べば良いのだが、半ば意地になって戦い続けている。
マユミの頬すれすれに侵入者の刃が通り過ぎて行く。
一瞬、背筋が冷たくなったが、それでもマユミは一歩も退かずに侵入者達と戦い続ける。
彼女の立っている屋上から壁伝いに階下へと降りれば、そこはシンジの寝所だ。
ここで阻止せねば、シンジの命が危ない。
「させません」
侵入者達を出来るだけシンジから引き離そうと、ジリジリと後退していたマユミだったが、落ちていた石に躓いてしまった。
どうやら城壁の一部が欠けて下に落ちていたようだ。
ありえない!!
侵入者達の攻撃に全神経を集中させていたとはいえ、致命的な見落としをしてしまった自分をマユミは呪った。
自分の胸に剣が突きつけられるのを見て、マユミは心の中でシンジに詫びた。
が、剣は一向に彼女の命を奪おうとしない。
「なかなかやるな。今度からネルフに来る時は注意しなくちゃな」
彼女に剣を突きつけたままの侵入者は、二ヤリと男臭い笑みを浮かべた。
敵対するアサシン同士が出会った場合、相手と会話する事など皆無である。たとえそれが別々の雇い主に雇われた親兄弟であろうと、無言で任務を遂行せねばならない。
にこやかに話しかけてくる男に、マユミは混乱した。
今のように相手を殺せる状態にある場合、彼女なら躊躇い無く殺しているだろう。下手に相手に時間を与えれば、形勢を逆転される恐れがあるからだ。助命と引き換えに情報を引き出す事もしない。任務遂行と機密保持が命より大切なアサシンに対しては意味の無い事だからだ。
「そこまでよ!!」
奇妙な膠着状態は屋上に上がって来た人物によって破られた。
ミサトはスラリと剣を抜き放つと、侵入者達二人に向けた。
「何者だ!!」
鋭い声でミサトが問うと、背の高い男が肩をすくめて見せた。
「おいおい、昔の恋人の顔を忘れたってのか?そりゃ無いぜミサト」
「リ、リョウジ・・・・・?」
背の高い男を見て、ミサトは絶句する。
リョウジと呼ばれた男をマユミに突きつけていた剣を鞘に戻すと、もう一人を連れてミサトの前へと歩いて行く。
「ディオクレス公国、情報部所属リョウジ・カジ。主であるマヤ・ブリーズ・トゥル・ディオクレス公爵殿下からの書状を、ネルフ国王ゲンドウ陛下、もしくは王太子シンジ殿下にお渡しする為に参った」
北方風の敬礼をしたリョウジは、ミサトへ向けてウインクした。
To be continued……