「おいっ!綾(あや)!!!死ぬなっ!約束しただろ、もう一度、あの桜の木を見に行くって!!」
真っ白な病室の中、青年の悲痛な叫びが響く。
彼の腕に抱かれた少女は、蒼白になった顔に少し寂しげな微笑みを浮かべると、青年の顔に手を伸ばす。
「十夜(とうや)、なんだか無理みたい。約束したのに、ごめんね・・・・」
彼女の白く細い指が震えているのを青年は頬で感じた。恐らく、少女は持てるすべての力を使っているのだろう。
「俺は嘘つきと結婚した覚えは無いぞ。絶対に一緒に見に行くんだからな!」
少年のように駄々をこねる青年を見て、少女は少し困った様に笑ったが、それも一瞬の事で、胸を襲う苦痛に顔を歪める。
つらそうに喘ぐ少女を見て、青年は悔しそうに唇を噛んだ。
代わってやれるものなら代わってやりたい。
彼女を助ける事が出来るなら、悪魔にだって魂を売れる。
だが、彼にはただこうやって死に行く彼女を抱いていてやる事しか出来ない。
非力な自分が、ひどく情けなかった。
「と、十夜・・・・」
「何?」
少女のか細い声を聞き逃すまいと、青年は彼女に顔を近づけた。
「一つだけ、お願いがあるの」
「一つと言わず、三つでも、四つでも言ってくれ。お前の為なら、何だってしてやる」
「ふふふ・・・いいの、一つだけで」
儚げに笑った少女は、目の前にあった青年の頬に、ついばむようなキスをする。
「十夜、わたしは貴方に幸せになって欲しいの」
「え?」
「私がいなくなっても、自暴自棄になんかならないで。そして、早く新しい人を見つけて、その人と幸せになって欲しいの」
「何言ってるんだよ、綾!!俺が、俺がお前以外の女を好きになったり出来る訳がないじゃないかっ!!それに・・・」
続けようとする青年の唇に、少女の白く細い人差し指が触れた。
これは、彼女がいつも"黙って"と言う時にする癖だ。
「私は、私の為に不幸になってなんか欲しくないの。だから、出来るだけ早く・・・・私の事は忘れて」
「なんで、なんでそんな悲しい事、言うんだよ」
青年は、たまらず涙を流し始めた。
そしてまた、少女も涙を流し始めた。
幼馴染であり、クラスメートであり、ボーイフレンドであり、短い間ではあったが夫でもあった青年が泣くのを見るのは、これが始めてであったからだ。
彼の為を思っての事とはいえ、彼を傷つけてしまった事が悲しかった。
彼女も出来る事ならば、自分の事を忘れないでくれと叫びたかった。青年が自分の事を忘れてしまった時の事を想像すると、恐怖で体が震えてくる。
だが、その恐怖以上に強い愛情が、彼女にその言葉を口にする事を禁じていた。
「十夜、やっぱりお願いは二つにするわ。あのね、私、貴方の歌が聴きたい」
「歌?」
「いつもの歌、お願い」
少女の目に強い意志が宿っている様に見えた青年は、小さな咳払いをしてからゆっくりと歌いだした。
それは、春の歌。
歌手を目指している青年が、初めて書いた曲だ。タイトルも無い曲を、少女は痛く気に入り、いつも嬉しい事や悲しい事があると彼に歌わせていた。
そして今、彼は少女に対する幾千、幾万の想いと共にその歌を歌う。
青年の腕の中、少女は死への恐怖が和らいで行くのを感じた。
「暖かい・・・・・・・」
病室に設置されている心電図が、彼女の心音がどんどん弱って行くのを無情に写し出している。
「・・・愛しているわ、十夜・・・・。と、時々は私の事を思い出してくれると、うれしいな・・・・」
心音は歌が終わりに近づくにつれ弱くなり、青年が歌い終わると同時に、停止した。
まるで糸が切れた操り人形の様に力が抜けた妻の体を、震える手でゆっくりとベッドに横たえると、青年はもう二度と開く事の無くなった彼女の美しい瞼に、そっと唇を当てた。
「おやすみ、綾」
少女を担当していた医師が病室へ入って来ると、脈と瞳孔を調べた後、無感情に彼女が旅立った時間を青年に告げた。
青年の慟哭が白い病室に響いたのは、その直後の事である。




蒼月 綾 (旧姓 倉木 綾) 享年18歳




この日から、青年は二度と歌う事は無かった。
そして、物語はその三年後から始まる・・・・・・。

『蒼月十夜イメージソング 「Miss Moonlight」by 黒夢』









「エンジェル・ヴォイス」
序章:抜け殻










落ち着いた感じのするバーのカウンターで、男が酒を飲んでいた。
しかし彼は、先程出された酒を一口啜っただけで、熱心にバーテンと話している。
「だからさ、一回でいいから俺についてきて欲しいわけよ。俺はお前にベタ惚れなんだからさ」
身を乗り出して顔を近づけてくる男に、バーテンはうんざりした視線を向ける。
他の客がこちらにチラチラと視線を向けているのを感じたからだ。
特に、自分目当てで来ている女性客の視線が痛い。
「後藤さん、誤解を招くような事を言わないように。僕はそっちの趣味はありませんよ」
「そんな事ぁ〜どうでも良いんだよ!!俺がお前と出会ってからもう三年だ。長い付き合いなんだから、一回くらい付き合ってくれても良いだろうが!」
後藤と呼ばれた男は、頬をヒクつかせて更にバーテンに顔を近づけた。
思わずバーテンは体を反らして後藤から逃げる。
「何度言ったって同じですよ。俺はもう二度と歌うつもりは無いんですから」
「ま〜た、そんな事を言う。ほんと、世界の損失だね、君の声を世に出さないなんて」
「俺は・・・・俺にはもう、歌う理由なんてありませんから」
どこか遠い目をして言ったバーテンを見て、後藤は大きなため息をつくと、浮いていた腰を椅子にドカッと下ろした。
彼はこのバーテンが歌わなくなった理由を知っていたし、理解も出来るのだが・・・。
イライラしながら後藤は溜息をついた。
三年前、交通事故で入院した友達を見舞いに、とある病院に足を運んだ時、隣の病室から聞こえて来た歌声に後藤は心底惚れ込んでしまった。
それ以来、音楽家である後藤の直感が、目の前にいるバーテンを自分の道に引きずり込めと囁きかけるのだ。
後藤はグラスを持ち上げると、一気にウイスキーを飲み干した。アルコールが胸を焼いたが、どうしようもない苛立ちを紛らわせるのには丁度よかった。
「ふぅ。まあいい、今日はこのぐらいにしておいてやる。けどな、俺は絶対に諦めないからなっ!!」
後藤は勢い良く立ち上がると、少しすねた様な顔をしながら店から出て行った。
良い歳のオッサンなのだが、ああいう顔をすると、子供の様に見えるのが不思議だ。
彼には綺麗な奥さんと、二人の子供がいる。
この前、後藤家に食事に呼ばれた時、後藤の子供っぽいところが好きになったと奥さんが話していたのをふと思い出した。
子供二人も可愛い盛りで、十夜の事を"お兄ちゃん"と言って慕ってくれる。
綾と自分、そして子供たち・・・・。
自分にもそんな"今"があったのかもしれないと、ふと思ったが、埒もない事を考えてしまったと少し自嘲的な笑みを浮かべた。
しばらくの間、新しい注文も無かったのでグラスを磨いていると、彼の目の前に一人の女性が腰掛けた。
「十夜君、いつものちょうだい」
「ああ、義姉さん、いらっしゃい」
この、どう見ても二人の子持ちとは思えないボディーラインを持った女性は佐々木志乃(ささき しの)と言って、綾の姉、つまり十夜の義理の姉である。
いや、だったと言うべきか。
しかし、志乃はいまだに十夜に対して義弟の様に接してくるし、また十夜も彼女を義姉として接している。
幼稚園の頃からの幼馴染であった綾の姉なのだから、当然の事だが彼女とは長い付き合いだったし、その頃から本当の姉の様に接してくれていた彼女を義姉と呼ぶのに、たいした違和感は無かったと言うのが一番の理由なのだが。
彼女は綾が亡くなった後、なにかと十夜の世話を焼いてくれていた。
「で、今日は何か用ですか?」
「あら、用がなければ可愛い義弟に会いに来ては駄目なの?」
「いや、別にそういう意味じゃあ・・・・」
手際よくカクテルを作りながら、十夜は心の中で昔から変わらぬ義姉に苦笑した。
「ふふふ、冗談よ。今日はね、貴方にいい物をあげようと思って来たの」
「いい物?」
「そうよ」
志乃はバッグの中から一切れの紙を取り出した。
「明後日から十日間、ここに行って羽を伸ばしてきなさい」
「は?」
渡された紙切れを見てみると、住所と電話番号が書いてあった。住所からすると、かなりの田舎のようである。
「なんです、これ?」
「うちの遠い親戚の家よ。ちょっと事情があって、家の部屋を貸し出す事になったから、私が十日間借りたのよ」
「で、なんでまた義姉さんが借りた部屋に俺が行かなけりゃならないんですか?」
当然の疑問をぶつけた十夜を、志乃はじっと見つめた。
「十夜君、あなた今、幸せ?」
「え?」
「貴方、綾が死んだ後、話してくれたわよね。彼女は貴方に幸せになって欲しいって言ったって」
「はい」
志乃は、妹の綾を看取る事が出来なかった。
どうしても抜けられない仕事があり、海外へ出張していたのだ。
綾の容態が急変したと連絡を受け、あわてて飛行機に飛び乗ったのだが、結局間に合わなかった。
彼女はその時の事を深く後悔しているが、当時は誰もあれほど突然に綾の容態が急変するとは思ってもいなかった。 
本当に、綾はあっけなく逝ってしまったのだ。
「私ね、今の十夜君を見てると、とても幸せだとは思えないの。昔みたいに笑わなくなったし、いつもどこか遠い目をしてる・・・・。一番信じられないのは、貴方が歌わなくなったって事よ。綾だって今の貴方を見たらきっと悲しむと・・・」
「やめて下さい!!」
十夜は自分が店にいる事も忘れて怒鳴っていた。
客が何事かと一斉にこちらを向く。
「綾の・・・綾の話をするのは止めて下さい。あいつの事は、俺が一番よく理解してますから・・・・」
十夜自身、大声を出してしまった事に驚いてしまい、一度深呼吸をしてから少し抑えた声で言った。
だが、志乃は引かなかった。
「ええ、そうでしょうね。でも、あえて言わせてもらうわ。今の貴方はただの抜け殻よ。ただ毎日を生きる為だけに生きている。そこにはなんの喜びもなく、安らぎも無い。自分の中に閉じこもって、過去の楽しかった時間だけを思い出して生きているだけ。そんなの、私の可愛い妹が愛した男じゃ無いわ!」
志乃は目の前に置かれていたカクテルを一気に飲み干すと、ゆっくりと続けた。
「だから、これはきっかけよ。十日間、都会の喧騒から離れて、ゆっくり自分を見つめなおして来て。もし嫌だと言うなら、私はもう二度と貴方に会う事は無いわ」
それだけ言うと、彼女はカクテルの代金をカウンターの上に置き、ツカツカと店から出て行ってしまった。
「抜け殻・・・・・か・・・・」
自分を見つめなおしてみる事。それも必要かもしれない。
十夜はひとりつぶやくと、義姉が残していった紙切れを握り締めた。



To be continued.


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