夜の静寂の中、黒猫は一つ欠伸をした。
彼女の視線の先には、精気を分け与えた為に疲れ果ててしまった遠野志貴が寝息を立てている。ピクリとも動かない彼女の主人は、ともすれば死人のように見えない事もない。
今夜は珍しく彼女の前の主人であったアルクェイド・ブリュンスタッドの訪問も無く、彼女はおもいっきり志貴に甘える事が出来た。
さてそろそろ部屋から出て行こうかと考え始めた時、彼女の耳は開けっ放しの窓から進入してくる気配を察知してピクリと跳ね上がった。
滑り込むようにして部屋へと入って来たソレは、まるで何かを探すようにフラフラと彷徨い始める。
素早く立ち上がったレンは、人の姿になってソレと主人との間に立ちふさがった。
恐らくよほど敏感な人間でないと見るどころか、その存在すら感じられないであろうソレの正体をレンは瞬時に見破った。
ソレは「思念体」と呼ばれるシロモノだ。
よくゴースト(幽霊)と間違われるが、思念体とは人の強い思念が目的を持って一人歩きし始めたモノだ。
まるで猫がそうするように、レンは前傾姿勢をとって威嚇するように思念体を睨みつけた。
思念体の中には悪質な物もあり、人に危害を加える事もある。
モヤモヤと今にも霧散してしまいそうに見える思念体は、遠野志貴へと少しずつ近づいて行く。
ふとレンの目から警戒の色が消え、いつもの無表情に戻った。
彼女は、この思念体に害意が無いのを感じ取ったのである。害意どころか、むしろこの思念体は彼女の主人に対して好意を抱いているようである。
狂おしいほどの思慕の念に触れたレンは、この思念体に力を貸してやる事にした。






月姫サイドストーリー


「Forget Me Not」(おためし版バージョン)






いつもの学校生活。
授業と授業の間にはさまれた休憩時間、遠野志貴はボケっと教室から窓の外を眺めていた。
そこには金髪のアーパー吸血鬼が手を振っていたり、最近やっとブラジャーを着け始めた妹が髪を朱くして立っていたりはしない。ただ、太陽の光を反射してギラギラと目を刺激するグラウンドがあるだけ。
目を瞬かせながらもじっと窓の外を眺めていた志貴は、肩を叩かれて意識を教室の内側へと戻した。
「何を見てるの遠野君?」
「いや、ただボーっとしてただけだよ」
長めの髪をツインテールにしてまとめた少女が、振り返った志貴の目に映る。
彼女はとても明るい性格で、クラスの中心的な存在だった。
そこまで考えて、志貴はふと違和感を覚えた。
何故自分は過去形で考えているのか。
ワカラナイ・・・・・・・・・。
「ところで遠野くん、今日も一緒に帰ってくれるよね?」
まるで思考を中断させるように目の前の少女、弓塚さつきは話しかけてくる。
「え?今日も?」
「えっと・・・駄目・・・かな?」
「いいけど・・・・」
また違和感。
彼が遠野家に引っ越してから、彼女とは毎日一緒に帰っているはずなのだが。
何かが間違っている。何かがオカシイ。しかし、それは何だろうか?
思考の海へと沈みかけた所で次の授業が始まってしまった。
「では、十五ページを開いてください」
教壇に立った教師がいつもの調子で授業を進めて行く。
志貴は前回のテストでかなり危うい点数を取ってしまったので、真面目に授業を聞いていないとまた妹である遠野秋葉が激怒する事になってしまう。
最悪の場合、彼女は髪を朱に染めて「略奪」を行うかもしれない。
命の危険を感じた志貴はいつもの貧血が起こらない事を祈りつつ、教科書を開いて知識を頭に詰め込み始めた。



午前の授業が終わり、昼休みが始まった。
「やっと終わったか」
つぶやいて背伸びをすると、背中の骨がボキボキと悲鳴を上げた。
クラスメート達は学食へ足を向けたり、家から持ってきた弁当などを広げて昼食を取り始めたりしている。
志貴の場合、アルバイト禁止と言う事もあって懐はそんなに暖かくない。したがって、食費を削らなければ財政破綻は必死。この国の政治家達のように公的資金の投入は期待出来ないのだ。毎日頭が痛い。
学食へ行けばそれなりに上等な物が食べられるが、やはり値段もそれなりの物になる。
「やっぱり購買に行ってカレーパンかな?」
教科書を片付けて立ち上がろうとした志貴は、自分の机の前に女子生徒が立っているのに気付いた。
「あれ?弓塚さん?」
「ねえ、今日は何処で食べる?」
目の前にズイと出されたのは、綺麗に水色の布で包まれた四角形の物体であった。
どこからどう見ても弁当箱にしか見えない。
さつきも色違いの包みを手に持っている。ただ、彼女の包みの大きさは志貴の半分ほどの大きさだ。
「何処で食べるって・・・・」
突然の事に言葉が詰まった志貴であったが、毎日彼女が弁当を作ってきてくれていた事を思い出し、何処で食べようかと思案し始めた。
「学食に行って弁当食べるのもなんだし、かと言って教室で食べるのはなんだかもったいないような天気だな」
言っている途中で今日何度目かの違和感に襲われる。
昨日は何処で昼食をとっただろう?
それ以前に、いつから弓塚さつきは遠野志貴に弁当を作って来てくれるようになったのか?
志貴には思い出せなかった。
いや、それは思い出せないのでは無く、まるで思い違いをしているような感覚だった。
習ってもいない数式を使って、問題を解けと言われているような、そんな理不尽さを感じさせるような違和感。
「弓塚さん、き、昨日は何処で食べたっけ?」
彼女に答えられるはすがない。そう確信めいた物を感じながら紡ぎ出した言葉は、あっさりと返されてしまう。
「昨日は中庭で食べたでしょ?」
「そうだったっけ?」
すこし困ったような顔でさつきが志貴の顔を覗き込む。
大きな二つの目で見つめられると、混乱していた志貴の頭は少しずつ冷静さを取り戻しはじめた。
「じゃあ、今日も中庭で食べよう」
まるで魔法にでもかかったように志貴の口が動き、頭の混乱とは関係無く無難な言葉が出た。
「うん!」
弓塚さつきはにっこりと笑った。
そう、とても満足そうに。



包みを開け、プラスチック製の弁当箱を開けてみると色とりどりの料理が所狭しと詰め込まれていた。
一口サイズのハンバーグに鶏のから揚げ、エビフライにタコウィンナー、そしてお弁当定番のプチトマト。どれも食欲を刺激する匂いを放っている。
一目で手間暇かけて作られたと言う事が分かった。
「いただきます」
中庭の芝生の上に腰掛けた志貴とさつきは、時折通りかかる生徒達に好奇の視線を向けられながら弁当を食べ始めた。
まず志貴が箸を伸ばしたのは一口ハンバーグ。口の中へ放り込んでみると甘い肉汁が広がった。
「美味しい・・」
恐らく冷凍食品ではなく、手作りなのだろう。そうでなければ、こんな味は出せない。
同じ手作りでも梅サンドイッチとは大違いだ。
何処ぞのメイドが聞いたら涙を流しそうな失礼な事を考えてしまう。
「本当?それ、ちょっと自信作なんだよ。よかった、美味しいって言ってもらえて」
少し照れながら、さつきは自分の弁当箱からエビフライをつまんで口に入れた。
志貴が箸を口に運ぶ度に心配げな視線をチラチラと送ってくるので、その度に志貴は感想をさつきに聞かせなければならなかった。
「ごちそうさまでした。本当においしかったよ、弓塚さん」
弁当箱を空にした志貴は、隣でまだ食べているさつきに言った。
大きな弁当箱だった事もあり、いささか量が多すぎて全て食べられるか不安だったが、残すのも失礼になると考えて最後は無理やり詰め込んだ。
「お粗末さまでした」
空になった弁当箱を見て嬉しそうに笑ったさつきは、自分ももう少しで食べ終わるから待ってくれと志貴にお願いした。
「焦って食べなくていいよ。いくら美味しい食べ物だって、焦って食べたら味がわからなくなるだろうし」
空になった弁当箱を元通りに包んだ志貴は、芝生の上にゴロリと寝転がった。
中庭に植えられている木の下には木漏れ日が降り注ぎ、清涼な風が吹いてお腹のふくれた志貴の眠気を誘う。
午後の授業が残っているので寝る訳にも行かず、なんとか上下の瞼がくっつかないように目元に力を入れてみるが、思いのほか眠気の攻撃は激しく、志貴はまどろみ始めた。
一度浅い眠りに落ちては目を開き、また目を閉じる。何度かそれを繰り返していた志貴だったが、いつしか目を開ける事を止めてしまった。



目を覚ました志貴が居たのは、オレンジ色の世界。
上を見上げた彼の目に映ったのは、西の空に落ちて行く太陽と、それを悲しげに見つめる少女の顔だった。
セピア色に似た世界の中、彼女の横顔は昔帰り道でみたそれと重なって見えた。
頭の下に柔らかい物が敷かれている感触を感じ、今の自分がどんな体勢で寝ているかに気付いて志貴は顔を赤くした。
さつきに膝枕されていた志貴は、飛び上がるようにして起きる。
「あ、起きたんだ」
「今、何時?」
「さっき最後の授業が終わった所だよ」
午後の授業をすべてサボってしまったと言うのに、さつきは気にした風もなく言った。
「あんまり気持ちよさそうに寝てたから、起こすのは可哀想だなと思って」
「あ、いや、その、ごめん」
志貴はもしかしたら自分が気付かない内に彼女の膝を枕にしてしまっていたのかと思い、彼女に授業をサボらせてしまった事を謝った。
早退常習犯の志貴とは違い、さつきが授業をサボったり早退する所を見た事がない。
それに加え、二人一緒に授業をサボったりしたら、一体どんな噂話を立てられるか分かったものではない。
志貴はさつきに迷惑をかけてしまったと罪悪感でいっぱいになった。
「あ、遠野君が謝る必要なんて無いよ。私が好きでやったんだし」
手を振って気にするなと言ったさつきは、立ち上がってスカートについた埃を払う。
「じゃあ、帰ろうか遠野くん」
微笑んださつきは、志貴の鞄を彼に手渡した。
一体、いつ彼女は自分と志貴の鞄を教室まで取りに行ったのだろうか?
どちらにしても、授業が全て終わってしまった今となっては、教室に戻ったところで意味は無い。ため息をついた志貴はさつきから鞄を受け取ると、校門へ向けて歩き始めた。
すでにほとんどの生徒達は下校した後らしく、しんと静まり返った校庭を二人で歩く。
校舎はオレンジ色に染め上げられており、人気の無い巨大な建造物はどこか寂しさを人に感じさせる。
校門を出た二人は、そのまま無言で帰り道を進んで行く。
「ねえ、遠野くん」
なんとなく志貴が破りづらく感じていた沈黙を、さつきが破った。
「何?」
「・・・・・ううん、ごめん、なんでもない」
それっきり言葉を交わさず、とうとう分かれ道にたどりついてしまった。
「遠野くん、じゃあ、私こっちだから」
「うん、じゃあまた明日ね弓塚さん」
「明日も、一緒に帰ろうね。・・・・・ありがとう、遠野くん」
さつきの言葉の後半がよく聞き取れなかった志貴だったが、元気よく手をふるさつきに手をふり返して遠野家の方へと歩き始めた。
二、三歩進んだ時、前からトラックが走ってくるのが見えた。よく見てみると左に寄ったり右に寄ったりとフラフラと走っている。
運転席を見てみると、案の定ドライバーが居眠りをしているではないか。
そうこうしているうちに、トラックは志貴の横を通り抜け、さつきが歩いて行った方向へと走り去って行く。
「やばい、あのまま行ったら弓塚さんが危ない」
とっさに走り出した志貴だったが、いかんせんトラックのスピードには敵わない。
そう、彼が常人であるなら。
七夜の血を活性化させた志貴は、もてる力の全てを足に集中させて走る。
ドクンドクンと心臓が悲鳴を上げるが、それは全く無視して走り続けた。
少しずつではあるが、ドラックに追いついて行く。ポケットの中に手をつっこむと、そこには握り慣れた金属の感触があった。
「いける!」
手に感じる金属の感触に頼もしさを感じて、志貴の口の端が持ち上がった。
息を荒げながらもようやくトラックを追い越そうとした時、前方に弓塚さつきの後姿が見えてきた。
「弓塚さん、危ない!!」
トラックがさつきに近づく前にケリをつけようと考えていた志貴は、大声で叫んでさつきに危険をしらせようとしたが、さつきには聞こえていないのかそのまま後ろを振り返らずに歩いて行く。
「ちぃっ!!」
魔眼殺しと呼ばれる眼鏡に手をかけた志貴は、一瞬のためらいの後、意を決してそれを外した。その瞬間、世界にいくつもの「死線」が走り、激しい頭痛が志貴を襲う。
あらゆる存在に走る「死線」は、当然トラックにも存在した。
志貴は意識を集中させ、タイヤに走る線を探す。
彼の目が蒼く輝くと、車輪の丁度中央部に黒い線が浮かび上がった。もちろん、この線は「直死の魔眼」を持っている志貴にしか見えず、彼はこの線を「切る」事であらゆる物質の存在を殺す事が出来る。
ポケットから使い慣れたナイフを取り出した志貴は、神業とも言える正確さで車輪に浮かび上がった線をひとなでした。
次の瞬間、片方の車輪が真っ二つに「切れた」トラックは、バランスを崩して民家の塀へと突っ込んで行く。
さすがにこの大騒音には気付いたのか、さつきが振り返った。
「遠野くん?」
「ふ〜、危なかった。もう少しで轢かれるところだった」
道端にへたりこんだ志貴は、汗の浮かんだ額を拭って大きく息を吸い込んだ。限界まで酷使した体と、直死の魔眼を使って負担をかけた頭が痛い。
気が付くと、弓塚さつきが目の前に立っていた。
「遠野くんが助けてくれたの?」
「まあ、そう言う事になるのかな、この場合は・・・」
言い終わる前にさつきが抱きついてきた。
突然の出来事に、志貴は固まってしまう。
「約束・・・・・・・守ってくれたんだね・・・・・・」
「うん・・・前は、守れなかったからね」
今度はさつきが驚いて目を見開いた。
「いつから、気付いていたの?」
「気付いたのはついさっきだよ。違和感は学校にいた時から何度も感じてたけどね。感じる度に強制的に忘れさせられてる様な気がしてたんだ」
志貴はそう言って近くの生垣の方へと視線を向けた。
「これが夢の中の出来事だって事を確信したのは、レンが生垣の中に隠れてるのを見つけた時だった。そこに居るんだろレン?出ておいで」
生垣がガサリと揺れ、一匹の黒猫が出て来た。
志貴には心なしかレンがうな垂れている様に見えた。主の夢を無断で操った事を反省しているのかもしれない。
「約束、守ってくれてありがとう遠野くん。これで私、本当に思い残す事がなくなっちゃった・・・・」
涙目になりながらも、さつきは笑って見せた。
「遠野くんとお弁当食べて、たくさんお喋りして、一緒に帰って・・・・本当に本当に楽しかった・・・・」
さつきが目を閉じると、目の端から涙が零れ落ちた。
その雫が地面に落ちると同時に、世界が歪み始め、さつきの体もつま先から消え始める。
志貴は黙ってそれを見つめている事しか出来ない。
「遠野くん。私、嘘ついちゃった。もう一つだけ、やりたい事があったんだ。お願い、聞いてくれる?」
「俺に出来る事ならなんでも・・・・なんでも聞いてあげるよ・・」
「じゃあね、目、つむってくれるかな?」
目を閉じた志貴の唇に、柔らかい物が押し付けられた。
「えへへ・・・・私、幸せだな」
志貴が目を開けると、すでにさつきは胸のあたりまで消えていた。
「本当にありがとう。さようなら・・・・・・・・志貴くん」
その言葉を最後に、弓塚さつきと言う存在の最後のヒトカケラは消えた。







エピローグ




いつもと同じリズムでドアがノックされる。
「志貴さま、起きてください」
普段ならば何度か呼ばれないと起きない志貴だったが、翡翠が部屋に入って来た時にはすでにベッドの上で体を起こしていた。
「志貴様?」
めずらしいと感じる以前に、また体の調子でも悪くなったのかと心配になった翡翠が志貴に声をかけたが、彼女の主人は心配するなと曖昧な返事を返しただけだった。
「弓塚・・・・・・・」
「・・・・???何かおっしゃいましたか志貴さま?」
「いや、なんでも無い。着替えはそこにおいておいて。すぐに着替えて下に行くから、秋葉にはそう言っておいてくれるかな?今日は多分一緒に朝食が取れると思うから・・・」
「そうですか。では、秋葉様にはそのようにお伝えいたします」
扉の前でおじぎした翡翠は、少しまだ心配そうな眼差しを志貴に向けたあと、扉の向こう側へと消えた。
ベッドから降りた志貴は、窓辺に立つと外を眺めた。
空は青く、雲一つない良い天気だ。
志貴の部屋から見下ろせる庭では、一匹の黒猫が日向ぼっこしておおきな欠伸をしていた。



Fin



戻る